灰色のへカーテ


 「アメリカの傀儡、日本」と言われ始めたのは、そう昔のことではない。と言っても、現在、高校二年生である黒河昂が物心ついたときには、既にそう言われていたのだが。
 二十一世紀初頭、世界を襲った不況の際、最初にそれから脱出したのが日本だった。その後、国際的影響力を強めた日本は、国際連合安全保障理事会常任理事国の地位を得ることになる。それが、全ての始まりだった。
 急接近してきたアメリカ合衆国。中国を始めとする、アジア各国の反対を押し切り、自衛隊が自衛軍となり、アメリカ軍と行動を共にするようになる。そして、日本は、アメリカ合衆国の属国のような存在へと変わっていった。
 社会も急激に「アメリカ化」を始めた。格差社会は広がり、巨大な貧困層の喘ぎが、街の至る所から響いていた。それと反対に、ひっそり優雅に暮らす、一握りの裕福な人々。そうなったからといって、選挙が活性化することもなく、貧困層の人々には、選挙に行く暇さえもないため、政治への関心の低さは、相変わらずだった。
 昂は一人、Y市の中心部を歩いていた。明るい日差しが、遠くに聳え立つ灰色のコンビナートの薄汚さを、より一層際立たせる。道端には、貧困層のホームレスの人々が寝ている。できるだけ目を合わせないように、昂は前だけを見て歩く。それ程お金も持っていないし、身なりは安売りブランドのパーカーとジーンズだから、襲ってくることはないだろう。
 少しだけ歩けば、大きな市立図書館が見えてくる。玄関の屋根の下にはホームレスの家族が座り込んでいた。彼らの前を通り過ぎる時、賑やかな子どもの声に、昂の口元は僅かに緩む。
 冷たく透き通った自動ドアに映った子どもの笑顔は温かい。
「ようこそ、Y市立図書館へ」
 カウンターに座っていた若い女性は、昂を舐め回すかのように見てから、にっこりと笑ってそう言った。ホームレスでなく、図書館の利用者であるかどうかのチェックだ。自分のすぐ隣に佇む厳つい顔の警備員を見ながら、こんなところに回している人件費があるのなら、貧困層を救済するべきだ、と思ってしまうが、掛かるお金は桁違いだろう。
 特有の香りのする図書館を、早足で突っ切っていく。回りは大人だらけだ。教師や教授、一部の大学生や一握りの社会人などしか、図書館を利用しない。昔は、自分ぐらいの若者も、たくさん利用していた、ということを知ったとき、昂は本当に驚いたのだ。
 図書館の入り口から一番離れたところにある書棚の前に、昂は辿り着く。回りには誰もいない。
「草理さん、昂です」
 一際分厚い歴史書を手にとって、開いた隙間から声を潜めてそう言えば、僅かに物音がした。それを確認すると、昂は静かに歴史書を戻し、すぐ横にある事務用の扉を開ける。
 中に入ればすぐに大きな書棚が目に入る。それと同時に、図書館に似合わない甘い香りが花を擽る。
「コーちゃん遅いよ」
 書棚の前のシックなテーブルの前に座って、優雅に紅茶を楽しんでいるのは、ワンレングスの黒髪の女性。このY市立図書館の館長である藍澤草理さんである。
「すみません。今日は、高校で進路講話があって、それが長引いてしまいました」
 昂がそう言うと、草理はティーポットから、昂の分の紅茶を注いだ。揺らめく湯気を見ていると、草理はにやりと笑い、尋ねた。
「へー、どんな話だった?」
「一言で言うと、理系に進め、でしょうね」
 昂は中流階級だ。早くから勉強に興味を持てたため、公立で県内トップレベルの進学校に通うことができている。公立進学校卒業生の進学先は、ほとんどが理系学部である。理系学部に言っておけば、食い逃れはしないからである。
「あんたは大変な時代に生まれてきちまったねぇ……」
 溜息を吐き、苦笑しながら草理は言う。
「本当に私の時は、そんなことありえなかったよ……私なんて、母子家庭で、国から生活保護を受けていたぐらいなのに、公立進学校、T高校に行って、その後、私立Y大学の社会科学部に行けたんだからね」
 まぁ、勉強を凄く頑張ったけどね、と草理は付け足す。いつだって、草理はさらりと経歴を話してくれるが、それがとても辛かったことを、昂は知っていた。
「草理さんの特殊性を除いたとしても、一般庶民が、Y大学の社会科学部行って、その後社会科学科を出るなんてことは、いくら努力をしても、今では、不可能かと思われます」
 私立なんて、一握りの裕福な人が行く大学だ。今は本当に数の少ない私立大学。庶民の場合、私立大学と言う選択肢はない。だから、多くの私立大学が消えた。
 さらに、大学に行ける中流階級の子どもたちは、理系に行って就職することを望まれた。文系に行ったとしても、経済系の学部だ。だから、今、社会学や法律関係の学部に進むのは、裕福な人の子どもばかりだった。
「あんた、H大学社会学部……第一志望だったよね」
 草理にやりと不敵に笑う。
 多くの社会学系統の学部が潰れた今、唯一社会学部が残っている、H大学。昔から有名な、文系の最高峰と言われる国立大学。昂はずっと憧れていた。高校に入ってからも、H大学しか見えていなかった。
 昂が頷けば、草理は笑みを強める。
「昂、頑張らないといけないよ。あんたの国語力と、貧しすぎる社会の知識じゃ、太刀打ちできない」
 さぁ、始めるよ、と草理は笑った。今日は地理だ。昂は鞄から大学ノートと筆箱を出す。草理は立ち上がり、棚から若草色の地図帳を出してきた。
 臙脂色の大学ノートを開け、筆箱を出す。今日はアメリカの産業だ。地図帳に線を引っ張りながら、すぐに説明を始める草理。昂は慌ててノートにメモを始める。
 黒河昂は、H大学で社会学を学ぶために、毎日学校の後、藍澤草理に社会と国語の勉強を見て貰っている公立進学校の二年生である。

 その日、いつもと同じように、昂は市立図書館を訪ねた。昂を中に入れてくれた草理は、いつになく顔色が悪い。その理由を尋ねれば、草理は苦笑いした。
「誰かが嗅ぎ回ってる」
 話によると、Y大学の卒業生名簿がどこかに漏れているらしく、独身で、Y大学を好成績で卒業しながら、密やかに図書館館長を務めている草理が、売国者団体に絡んでいると疑われているらしい。
「全く……冗談じゃないね」
 フン、と鼻を鳴らしながら、草理は紅茶を飲んでいる。疑いだけならば、逮捕されることはないらしいので、昂は安心した。
「こんなに日本国に尽くしてるって言うのに」
 どこでですか、と昂が尋ねてみると、あんたに決まってるじゃん、と草理は馬鹿にしたように言う。
「あんたが日本を変えていくんだから」
 人の悪そうな笑顔を浮かべる草理。昂は溜息を吐く。どう考えても自分よりも、草理の方が賢いし、努力家だ。
「草理さんは変えないんですか?」
「面倒だろ」
 限りなく自己中心的だ、と草理は思ったが、口には出さなかった。口論で草理に勝てるはずがない。
「自分では気付いていないと思うけど、向かい風の中、嬉しそうに全速力で駆け抜けていくことができるやつなんて、そういないよ」
 笑顔を浮かべながら、向かい風の中、全速力で駆けて行く自分の姿を想像した昂は、素直に比喩だけで捉えればよかった、と本気で後悔する。
「要するに、馬鹿じゃないですか」
 昂がそう言うと、草理はにやりと笑った。
「馬鹿と天才は紙一重。時代を変えるのは、イイ馬鹿だ」
 その笑顔が、あまりにも格好良くて、草理に似合っていたので、昂は、ぼーっと草理を見てしまった。すると、草理は、今日は経済だよ、ノート出しな、と昂をせかした。

 黒河昂は三者懇談が嫌いである。
「公立で、H大はキツイかな……」
 苦笑いしながらそう抜かす担任に、昂は溜息を吐いた。
「仮に受かったとしても、就職が辛いことでしょう……あなたは将来、何になりたいのですか?」
 決まっていない、なんて言えない。昂は俯いた。昂は社会が大好きだから、社会学部で勉強したいわけであって、何になりたいなど決まっていなかった。草理は、それで十分じゃないか、と笑っていたが、草理は特別だ。
「お母様はどうお考えで?」
 担任は眼鏡を上げながらそう尋ねる。隣に座っている昂の母親は、さらりと返した。
「本音としては、理工学系統へ進んでいただきたいですが、昂は頑固なんで」
 諦めてるんですよ、とにっこりと笑う母親に、担任が脱力したのは言うまでもない。昂も、相変わらず掴み所がない人だ、と思い、溜息を吐いた。
 そのまま三者懇談は終わった。昂の母親は、担任の先生の眼鏡、センス悪かったね、などと能天気に言っている。昂は駅で母親に別れ、すぐに市立図書館最寄りのY駅へ行く電車に乗り込んだ。

「悪くないじゃないか。国語と社会は子供騙し程度だから、考慮に入れないとしても、理系教科もそこそこ取れてる」
 すぐに見せると、草理は満足そうに笑い、何故あんたはそんなに浮かない顔をしているんだ、と尋ねた。三者懇談が嫌いだと言うと、なんだそういうことか、と理由も聞かずに草理は勝手に納得した。
「私も高校は嫌いだった。高校までは、名前をよく呼ばれるだろう? ゾウリなんて言う名前の女の子がいて堪るか。私はクサリだ」
 結局それを喋りたかったんだ、と別の意味で昂は草理の話に納得した。しかし、名前の読み方を間違えられるとしたら昂も同じだ。
「私もスバルってよく言われますが、特に気にしたことは……」
「スバルは格好良いから許せる。ゾウリって、ゾウリムシか?」
 確かに、と昂は思った。草理は、その名前の所為で起こった嫌な思い出を、立て続けに並べた。しかし、それだけの理由で、高校を嫌える草理も凄い、と昂は思った。
「でも、草理さんって良い名前じゃないですか? 柔らかい感じの草と堅い感じの理っていうところが」
 お世辞抜きにしても、昂は草理という名前が好きだった。
「ありがとう。そう言ってくれるのは、あんたぐらいだよ」
 草理は照れたように笑う。
「でも、あんたも良い名前じゃないか、コーちゃん。コウと読めば上がる、スバルと読めば星団……そう言えば、昴の由来を知っているか?」
 いつもの挑戦的な笑みに変わった草理さんは、そう尋ねる。何ですか、と昂は素直に言った。
「統べる、統ばる、つまり統治するって言う意味だよ」
 あんたにこれほどまでに似合う名はない、と草理さんは言ったが、それだったら、コウではなく、スバルと読ませたらいいのに、と昂は思った。ただ、口には出さない。昂は、とても嬉しかった。

 後をつけられている、と昂が気付いたのは、図書館からの帰り、学校と隣接するT駅で電車から降りたあたりだった。T駅を降りる人はそれ程多くない。毎日乗っていると、降りる人は決まってくる。
 そんな中、初めてここで降りただろう男を、昂は横目で訝しげに見た。図書館でも、Y駅でも見た男。ベージュのベストと茶色のズボン。図書館で、大抵誰もいないだろう書棚まで着いて来たため、顔を覚えてしまった。その所為で、自分とは大分離れた所に佇んでいるのに、気付いたのだ。
 昂は冷静に考えた。理由は分かっていた。草理と自分が毎日接触するからだろう。とりあえず、昂がすべきことは、当り障りのない平凡な高校生となることだ。
 駅から出てから、高校生の群れに紛れ、自転車置き場に向かう。確実に着いて来ているだろう男の姿を気にしてもしょうがないので、昂は振り向きもしなかった。
「黒河ちゃん、一緒に帰らない?」
 自転車に鍵を差し込んでいると、隣から中学の時のクラスメートが声をかけてきた。明るい子だ。特別仲が良いわけではなかったが、喋るぐらいはする。
「うん、ありがとう。そういえば、今日の授業さ……」
 後ろは気になったが、そのまま昂は家への扉を開けた。

 思えばその日は朝から嫌な感じではあった。明るく晴れているのに、何故だか胸騒ぎのようなものがした。道端に座り込む人々の中に混じる、自分の姿が浮かんだ。
 放課後、昂はいつものように市立図書館に向かった。
 入り口で声をかけられる。横を見れば、いつも入り口の屋根の下にいる家族の母親がいた。突然のことで、昂が驚いて固まっていると、白い封筒を差し出してくる。
「館長さんから」
 封筒を裏返してみると、そこには綺麗な三つの文字が並んでいた。
 逃げろ
 それは、確実に草理の字だった。頭の中が真っ白になる。草理さん、と叫びたくなるのを堪える。とりあえず、今は逃げなくてはいけない。
「どうぞこちらへ」
 さっと灰色の重い布を、頭から被せられる。ごわごわしている布だ。そのまま、女性に手を引っ張られる。女性の二人の子どもも、一緒になって走り出す。図書館の裏へ、猫道のようなところを抜けていく。布は硬くて重かった。女性の手はゴツゴツとしていた。それでも、とても暖かかった。
 ビルの裏を抜けていく。暫くすると、女性と子どもは走るのをやめた。
「黒河さん、館長さんは、政府に捕まりました。おそらく、あらぬ罪を着せられ、もう帰って来ないでしょう」
 歩きながら、女性はそう話した。昂は口出したいのを抑える。
 草理は、昂が去った後、やってきた政府関係者に事情を聞かれていたらしい。二時間ほど後、彼らは帰ったのだが、草理だけは浮かない顔をしていたという。そして朝早く、草理から封筒を言付かったらしい。
 女性も草理の行方は分からないようだった。彼女は、草理と仲が良く、毎日食事を頂いていたと言う。草理は、昂に一言もそんなことを言わなかったので、昂は驚いた。
「この先に、あなたがいつも使っているK鉄道のY駅ではなくて、J鉄道のY駅があります。そこから早く家に帰ってください」
 昂は頷いた。すると、女性はゆっくり微笑んだ。着いて来てくれた二人の子どもも、にっこりと笑って、手を振った。昂も丁寧にお礼を言った。
 前を見ると、賑やかな駅前の道路の一部が見える。前にぽっかり開いたビルの隙間から射し込む光が、昂には異様に憎たらしかった。

 J鉄道の駅から、学校まで歩く。政府関係者は、まだ市の中心部にいると思っているだろう。自転車のサドルに手をかける。
「おい、あんた、図書館で藍澤草理に会っていた者だな」
 ふと隣を見れば、この前の男がいた。
「藍澤館長のことですか? 藍澤館長にはよくお世話になっていますが……それが?」
 鳴り響く心臓を抑えながら、何も知らない様子でそう訊き返す。
「まぁ、良い。引き止めて悪かったな」
 男は近くの道に姿を消した。昂は黙って自転車をこぎ始める。周りの高校生の声が、遠くから聞こえてくるようだった。



昂ちゃんへ

 とうとう、政府の治安維持組織に捕まってしまった。一生恨むぞ、あの野郎共が。名前の読み方ぐらい調べろ、っていう話だな。
 とりあえず、あんたの勉強を、最後まで見てやれなかったことを許せ。知り合いに、あんたが使っていた地図帳、その他諸々を宅急便で送って貰うことになっている。一生懸命勉強して、必ずH大学に受かるように。努力しろよ。努力して、日本を変えろ。時代に逆らいたければ、逆らえ。ただ、お前は強者だ。社会で弱い立場にある人を労わることは、絶対に忘れるな。
 本当は私が日本を変えてやりたかった。でも、私にはできなかった。だけどあんたならできるはずだ。
 あと、私は生きる。だから、絶対に、迎えに来い。待っている。

Gray Hecate


 家に帰った昂は真っ先に封筒を取り出した。封筒から一枚の紙を取り出す。そこには、見慣れた綺麗な文字が並んでいた。手紙を読みながら、漸く昂は草理が行ってしまったことを理解した。それと同時に、涙がボロボロと零れ落ちる。悲しいわけではなくて、喪失感なのに、手紙に書いてあることも、草理らしくて、草理がいつも言ってることであって、感動するような内容じゃないはずなのに、途切れることなく床に落ちる大粒の涙が、不思議で仕方なかった。



 十数年後の日本。議員宿舎の一室に、二人の女がいた。
「政府は未だ、我がHEADSの手掛かりを掴めていないようです」
 ショートカットの女は出された紅茶を飲みながら、業務報告をする。
「奴らはGray Hecateを男だと思っているらしい。必死に調査してるよ。へカーテが女神だと言うことすら、彼らは知らないのかな」
 向かい側のソファーにゆったりと腰掛けている、ワンレングスの背の高い女は、薄らと笑みを浮かべた。
「ふふ、反政府団体HEADSの最高指導者、Gray Hecateが議員宿舎にいるなんて、夢にも思ってないでしょう」
 ショートカットの女が、くすくすと笑う。
「しかも、活動家を取り締まるはずの警察省大臣、生真面目だと有名な黒河昂が、などとはね」
 にやりと笑って、ワンレングスの女は、大きな窓に目を向けた。すると、ショートカットの女は、それでは、と行って退席する。すぐに扉が閉まる音がした。
「月と魔術を司り、光にも闇にも権利を持つ、謎に包まれた女神……草理さん、あなたが一番好きな神様でしたよね」
 明るい月と真っ暗な夜闇。
「もうすぐ、あなたに会えますね」
 昂は、大きな三日月に向かって、そう言った。




TOP


Copyright(c) 2008 UNNATURAL WORLDS all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-