月の王
 
 
 私は、目の前の青年を見た。端麗な顔に、余裕の笑みを浮かべ、グラスに映った夜を眺めるその横顔は、とても絵になる。
 しかし、傾けているのが、ワインでもカクテルでもなく、リンゴジュースだということを知っている私にとっては、この上なく滑稽である。
 せめて水にしろよ。そんな私の心を一蹴するかのように、青年は言った。
「お前はリンゴジュースを馬鹿にしていたんだ。分かるか、王子」
 そう、私は王子だ。
 そして、赤味掛かった茶髪を夜風に流し、リンゴジュースを見せつける、私を馬鹿にしたように笑う青年、この、王子である私よりも偉そうな青年が、私の教育係だ。名を、アスラという。不敬罪にでもかけたいところだが、後が恐ろしいのでやめておく。
 こいつに嫌がらせをして、碌なことになった覚えがない。
 そんなことを考えている私を、嘲笑うかのように、朗々アスラは続ける。
「そう、お前は、私の用意した解毒剤入りのリンゴジュースを飲まなかった。だから、毒にやられたんだ」
 どれだけ用意周到なんだよ。そして、何故、リンゴジュースなんだよ。
 
 
◇       ◇
 
 
 私はそう思ったが、アスラは、騎士修行の途中で毒を盛られ、倒れた私をさり気なく保護し、寝台に寝かせ、どこで手に入れたのか分からないような解毒剤を無理矢理飲ませ、命を救ってくれたのだ。文句は言えない。
「よって、お前は、王子たる威厳を見せつけるために、自らの手で、毒を盛った奴らを片付けなければいけない」
 アスラは立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。まるで、この部屋の主の如く、堂々とした様子で、ゆったりとした歩み。
「お前に毒を盛った奴らは、私がリストアップしてある。あとは、お前が斬り込みに行くだけだ」
 私は、つい、驚きの声を上げてしまった。アスラの仕事の速さなんてものは今更だ。しかし、騎士見段階の私が、斬り込みに行くなんてことは、不可能に近い。
「相手は、なかなかの剣士だったぞ。さぁ、楽しく行こうではないか」
 その反応を楽しむかの如く、アスラは笑っていた。
 楽しいのはお前だけだよ、と私は思ったが、黙っていた。そんなこと言ったら、楽しまれるだけだ。
 そうして、私は、未だに回復しきれていない体に鞭を打ち、アスラに従い、月の出る夜の町に降り立った。
 
 
◇       ◇
 
 
 そして、やはり、私の体は、言うことを聞かなかった。しかし、目の前には、自分の峰打ちで敗れた剣士たち。そして、私の後ろには、それを涼しい顔で眺めているアスラがいた。
 最近、不思議な力を持つ者たちが現れた。しかし、誰一人として、それを意のままに操る者はいなかった。
「完璧だっただろう。強き剣士である王。素晴らしい」
 宿に戻った後、アスラは満足げに笑った。裏で何かを考えているようにも見えるし、裏はないようにも見える。そんな不思議な笑顔だった。
「あなたは、いつだって楽しそうだ。一体、何がそんなに面白いのですか? あなたは、何をしたいのですか?」
 アスラは忠誠心の欠片もない男だ。しかし、いつも私を助けてくれる。私を蹴散らすなんて、朝飯前。そもそも、この国をも簡単に滅ぼすような人間だろう。
 私が尋ねると、アスラは、声を出して笑った。
「言ったところで分からないだろう。しかし、お前のために、言っておくべきことがあるね」
 それは、まるで私の本心を見透かしているようだった。否、見透かしているのだろう。
「王子は太陽。私は月。でも、太陽は月に頭を下げている。たとえ、月の光が、太陽のものであったとしても、何の問題がある? 月は、輝くことを本質としていないかもしれないではないか。この空を力強く横断する。たとえ、太陽の光がなくとも、それは変わらない」
 アスラは、窓の外から見える月に目を向けた。月は毎日のように、空を横断する。
 その横顔に、私はぞっとした。美しい横顔に、冷たく荒々しい野心が横切ったような気がしたのだ。
 しかし、それは一瞬だけだった。
「つまり、心配するなということだ。私は、こんな国の王になる気は無いよ」
 私は、本当に不敬罪を問おうか、と一瞬考えた。こんな国、と言うが、私の国は、十分大きな国である。
 しかし、納得もできることだった。アスラなら、この国を滅ぼせる。滅ぼさないのは、この国に興味がないから。
「私は、とやかく人に世話を焼いてやるつもりは無い。人間の為に、世界を照らしてやる気は無い」
 アスラは伸びやかな声で、まるで謳い上げるかのように語る。
「太陽を欲するのは、人間で、世界は太陽など必要としていないのだよ。そして、私は、人に求められる太陽では無い。つまり、私は人の王には興味が無い」
 太陽は、人に求められる王。では、月は何なのか。光を与えることなく、ただそこにある月。
「私の纏う光は、与えるものではない。ただ、自分の自己満足だ。だから、私は、人ではなく、光がなくても生きていける者たちの王になろうと思ってね」
 アスラの暗い色の瞳に光が宿る。
「私は世界のための王になろうと思っているのだよ」
 アスラは、漆黒の夜と、高々と浮かぶ月を背に、この世の全てを物にしているかの如く笑った。
 
 
 私が、彼の言ったことの意味を真に理解するには、まだ暫く時間が掛かる。
 私は、王になり、ある男が、魔物の住む野蛮な世界を統べたという知らせを聞く。
 その時、私はこの男の笑顔を思い出した。月夜を背景に、光を飾りのように纏い、強くある男の姿を。