鬼神


「そんなに、セイハイの旦那さんが好きなの?」
 牢の柵の向こうに座る女性は頷いた。長い緋色の髪に、細い草原色の瞳。魔界で一番強いとされる女性は今、牢獄の中で抵抗もせずに、弱弱しく微笑んでいるのである。そう、彼女は心優しい人だった。
「あぁ、愛していたんだ」
 心地良い高さの声。囁くような大きさの声だったが、その声には強い思いが宿っていた。その一言に全てが集約されていた。それは、恋なんていう次元の物ではなかった。一言で言い表せない、そんなものなのである。彼女の闇を理解した唯一の人。その美しさを見出し、言葉にした最初の人。彼女は、彼を必要としていた。
「私は約束をした。死ぬときは、一緒に、と」
 私は頭を何かで殴られたような気がした。この女性は、愛していた人を失うだけではなく、取り交わした大切な約束さえも、破ってしまっていたのだ。彼女は知らないことだが、もう既に彼女の夫は殺されていた。
「でもあなたには……」
 私は何とかして話を逸らしたかった。
「キナは強い子だ。あの人によく似ている。ただし、ライアルは違うだろうな」
 彼女の顔は、穏やかだった。目を伏せて、優しく微笑む。
「あの子だけが、心残りなんだ。龍の力を持った子など、普通の人間に育てられるものではない」
 彼女は穏やかに苦笑いをする。彼女は母親なのだ。まだ歩けない赤子を残して死ぬことが、どれだけ不安なことか。
「私は弱かった。約束も、娘も守れなかった……」
 私は罪悪感に打ちのめされた。眩暈がした。彼女は知っていたのだ。夫が死んでいることに。自分が騙されていることに。しかし、彼女の微笑みは変わらなかった。私は、彼女に負けたのだ。彼女の、愛する夫への愛は、想像を絶する物だったのだ。
「そんな顔をしないでくれ給え。私は貴殿に本当に感謝している」
 彼女は少し慌てた様子だった。私は落ち着いて息を吸った。
「私は、あなたには勝てません。あなたの優しさには……」
「娘を見捨てた私は、貴殿の足元にも及ばないだろう」
 彼女の微笑みは相変わらず優しかった。
 フヨウ様、あなたは素晴らしいお方でした。キナは責任を持って幸せにします。私は、あなたのように、強く優しいお方が、あなたのもう一人の娘を、見つけ育ててくれることを、心から祈ります。