俺がペンギンになった日


 視界は広がっている。ただ、それはあくまでも角度的な問題だった。
 ベッドから転がるように降りて、下を見れば鳥の足。そして白い胴。のそりと起き上がって、歩くのは大変だ。ぺちゃぺちゃと懸命に足を動かすが、恐ろしく足は短いため、あまり進まない。
 思い当たることは一つ。
『アンーっ』
 叫び声は、ぐえーっという音に変わる。希望はない。
 ペンギン、否、チャーリーは、自室の中でパタパタと羽根を動かしながら、必死に叫んでいた。


 チャーリーは、どうしようもない、という結論に至り、大人しく部屋でじっとしていることにした。間抜けなことに、扉を開けれず、部屋から出れないのだ。
 暫くすると、扉を叩く音が響いた。
「チャーリー、おい、まだ寝てるのか?」
 ライアルの声である。ライアルは基本的に動物好きだ。まだ希望はあるだろう。
「鍵締まってる……まぁいいや。ドラゴンクロス」
 轟音が鳴る。飛んでくる扉の破片と爆風。何が、まぁ、いいやなのかが分からない状態だ。チャーリーは埃っぽい中で、えいやと体を起こす。
『人の部屋をっ。俺は今晩どうやって寝ればよいんだっ』
「あれ、チャーリーってペンギン飼ってたっけ?」
 ライアルはそれだけ言うと、他を探そう、と出て行ってしまった。扉は勿論吹っ飛んだままだ。瓦礫と化した扉は無残だ。流石ライアル。やることが一味どころか二味ぐらい違う、とチャーリーは思った。
 チャーリーは何度か躓いて転びながらも、何とか部屋から脱出することに成功した。
 埃だらけの体をどうにかするため、チャーリーは中央広場に出ることにした。体も慣れてきた所為か、転ぶ回数は格段と減った。ステンステンと階段を降りて、裏庭に出る。そして、裏庭を横切って、中央広場に向かう。授業中だからなのか、生徒はいない。
 てちてちと歩いていると、前方に大きな池が見えてくる。池で体の汚れを落とそう、とチャーリーは考えていた。それに、チャーリーのイメージでは、ペンギンは水辺の生き物だ。
「何してるの?」
 すぐ間近に池が迫っていたそのとき、ふと声をかけられる。聞き慣れた声だ。横を見れば、大きな樫の木下で、優雅に革表紙の本を読んでいるフレアがいた。
 お前、授業どうしたんだ、と思ったが、口にはしない。したところで、あの微妙な鳴き声になるたけだ。
 フレアは、動物の言葉を理解できないはずである。チャーリーは、そのまま歩いていって、水に浸かる。心地良い温度の水の中で、すいすいと泳いで見る。深いところには何かいるか分からないので、とりあえず浅瀬だけ。
 すっと潜ってみると、水中は穏やかな朝の光できらきらと輝いていた。地味な銀色の小さな魚の群れも、輝いていた。ペンギンも悪くない、とチャーリーは思った。
 暫く泳いでから、チャーリーは岸に上がることにした。てこてこと歩くと、足に泥がつく。気持ち悪い。濡れた体は土がつきやすいことを、チャーリーは忘れていた。
 折角体の汚れを洗い流したのに、と思い、水の中に戻り、困っていると、水面がぱりぱりと言う音と共に凍り始めた。ふと前を見れば、平然と本を読んでいるフレア。その元へ繋がる氷の道が出来上がった。
 キラキラと光る氷の道を歩いていくと、フレアは黙って本を横に置き、チャーリーのほうに目を向けた。
「お馬鹿さんだね」
 白い手が翳され、濡れた体が見る見るうちに乾いていく。
 こんな優しさが、こいつの中に存在したのか、と驚いていると、フレアは溜息を吐き、本を手にとって読み始めた。


 一向に溶けない氷の上に座り、ただぼーっとフレアを見る。読んでいる本には「Paradise Lost」という字が刻まれている。失楽園……案外普通の本を読んでいるな、などと思っていると、誰かが走ってくる音がした。
「あれ、フレア君……こちらのペンギンさんは?」
 現れたのは、アンの人工精霊で、よく魔法学校を歩き回っている少女。名前は、アズサと言ったか……アンを慕っていて、アンの後ろを歩いていることが多い。アン曰く、戦闘能力は皆無らしいが、頭は回るらしい。アンが言うぐらいだから、相当なものだろう。
「丁度良かった。そのペンギンをアンの部屋に連れて行ってあげて」
「はい……可愛いペンギンさんですね」
 すぐにふわりと持ち上げられる。
「持てる?」
 フレアのその言葉に、チャーリーは驚きのあまりバランスを崩して、危うく落ちそうになった。フレアが、人間相手に、心配するような言葉をかけるなどありえない。
「大丈夫です……って、フレアさん、それ、ジョン・ミルトンの失楽園じゃないですか。面白いですよね」
 ごめんね、びっくりしたでしょ、と強く抱きかかえられる。フレアの方を見れば、普通に微笑んでいる。
「君、この前、僕がべリアルに似てる、って言ってたよね」
 さらりとフレアが言う。すると、アズサはすーっと息を吐いた。
「いや、だって容姿端麗だし、頭良いし、口も良く回る。自分の信頼する人は助けてあげるところとか、そっくりじゃないですか」
 べリアルという名前は初耳だが、それを聞く限りでは確かにそっくりである。しかし、フレアにそんなことを直接言うなど、無謀にも程がある。
「別に責める気はないよ。『価値なき者』っていうのも悪くないからね」
 フレアは薄っすらと笑う。アズサは、深く溜め息を吐いた。フレアに馬鹿だと言われない人も珍しい。それより、フレアがアズサを責めないことにもチャーリーは驚いた。
「責めてないけど、拗ねてるじゃないですかっ」
 チャーリーは噴出しそうになる。フレアは黙り込んでいる。
「……」
「ごめんごめん。謝るから……」
 何も喋らないフレアを見て、アズサが謝る。ここで、魔法発動されないところが驚きだ。
「良いよ。それより早く行きな。ペンギン、落とさないようにね」
 薄っすらとしたフレアの笑み。
「ありがとうございました。では……」
 遠ざかっていく、白い髪。珍しいものが見れた気がした。


 その後、チャーリーはアズサとチェスで遊んでいたが、昼休みに部屋に帰ってきたアンに戻してもらった。



 それから、チャーリーは暫くフレアを観察していたが、彼は基本的に、一部の人以外には比較的親切だということが分かった。
 チャーリーは、僅かに期待をしていたこともあり、少しだけ残念に思った。