「何てことを言うのです。この子は私の息子です。シナギ人です」
 あいつと初めて会った時、あいつはまだ幼いラストを抱きしめ、ラストと同い年の子を持つ母親に向かって声を荒らげていた。
 ラストは黙って母親に抱かれていた。顔は見えなかった。泣いていたのかもしれない。ただ、サラの腕から覗く赤い髪から諍いの原因は容易に想像できた。
 俺を見つけたサラは、にっこりと笑って挨拶をした。そして、ラストの頭を叩いた。
「さぁ、ラスト。挨拶しなさい」
 ラストは嫌だ嫌だと涙声で拒んだ。サラはラストを叱った。
 第一印象は確りとした若い母親だった。まさか彼女が俺と共に戦うことのできるような長刀使いだとは夢にも思わなかった。


 軍公に言われた場所に行くと、茶色の染みの広がる地面の上にエース・アラストルが座っていた。
「エレシュキガル隊長、御機嫌よう」
 彼女は期待を裏切らなかった。それがまた腹立たしかった。俺が現れても、全く取り乱すことはない。それどころか、待っていました、とでもいうような顔をしていた。彼女の表情は馬鹿にしたようなものでもなく、不当な怯えを孕んでいたわけでもなかったが、何故か気にくわなかった。
「そのパンは何だ?」
 エース・アラストルは包帯の巻かれた体で気に凭れかかり、バスケットに入ったパンを頬張っていた。そのパンは軍で支給されたパンではない。
「レディカの姪っ子のエルニアちゃんが持ってきてくれました。水も持ってきてくれるそうです」
 レディカとは酒場仲間なんですよね、とエース・アラストルは笑った。
「レディカはここに残る」
 しかし、俺がそう言っても顔色一つ変えず、そうですか、と続けた。
「空が青いですね」
 そして、そう言って空を仰いだ。
「いつものことだろう」
 シナギは雨が少ない。空はいつも青い。
「空を見ることなんて滅多にありませんから。私は忙しいので」
 エース・アラストルはそう言って笑った。
「軍公とは話したのか?」
「ええ、勿論。目を開けたら一番に腹立たしい面が入ってきて、困りましたね」
 憎まれ口は相変わらずだ。俺の思った以上に彼女の反応はあっさりとしていた。自分を殺そうとしていたことに関して、彼女はあまりにも無関心だ。
「まだ、居座る気か?」
「居座りますよ、任されましたから」
 エース・アラストルは口元に微笑を湛えた。
「落ち着いたら、状況を説明しろ」
「分かりました」
 エース・アラストルは間髪入れずに答えた。
「必要以上に気負うなよ。迷惑にしかならない」
 そう言うと、エース・アラストルは目を丸くした。
「あいつは、お前を特別視していたわけじゃない。あれがあいつの性格だ」
 もし、あいつのためにここに居座ると言うのなら、それはおかしいと思った。彼女はエース・アラストルを縛ることを望んではいない。
 あいつの意志を引き継ぐのは、俺だ。
「サラがどう思っていたかなんて関係ありません」
 血の付いた銀色の髪をかき分ける。ボロボロと乾いた茶色の血の欠片が落ちていった。
「私の価値の問題です」
 そう言いながら、彼女は己の刀を引きよせた。気に凭れかかっていた体がまるで糸で引かれたかの如くゆっくりと動き出した。
 俺はそれを見て、何故ラストがエース・アラストルを慕うのかを悟った。エース・アラストルは、ラストが求めていただろうものを持っていた。彼女は基本的に自己完結している。他者を変えようとはしない。周囲からの視線はどうしようもないと諦めながらも、常に他者からの視線を気にしていたラストにとって、エース・アラストルは輝いて見えたのだろう。
「戻ってくるなら体は治せよ」
 空を見る暇もないというのはあんまりだろう。エース・アラストルは、まるで何かに取り憑かれたかのように努力を重ねている。何かを言い聞かせて努力せざるを得ない状況へ自分を追い詰めている。
 何故、興味のないエース・アラストルの思考が手に取るように分かるのか。それは、よく似た人物を間近で見てきたに他ならない。大切な家族を失ってから、血を吐くような努力を重ねてきた軍公と、この自由奔放な剣士が重なって見えて仕方がなかった。
 エース・アラストルが、軍公のように闇雲に努力を重ねざるをえなかったとは思えない。強制されたとも思えない。自ら選んだのだろう。そうだとしたら、エース・アラストルが軍公に敵意を顕わにするのも、軍公が大人げないことをする理由も分かる気がした。二人は似ているようで僅かに違う。大きく違うことは許せても、僅かに違うことが許せないことは多い。
「まだまだだな」
 自ずから選ぼうと、選ぶことを強制させられようとそれは同じだ。二人はただ闇雲に努力を重ねているだけだ。
 零れた本音は最年長の第一部隊長の口癖だった。俺も随分と年を取ってしまったものだと思った。


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