十年前、僕は重い刀を抱えていた。軍公様から頂いた大きな漆黒の刀だ。もうその時には軍公様は死んでいた。
 軍公は、僕だった。
「陛下、わたしがお守りいたします」
 もう、エフィス兵はすぐ近くまで来ていた。草原に響く風の音はそのままで、ただ血の臭いだけがいつもと違った。
「駄目だ、セーレ。お前は軍公。民の手本となるべき存在。お前にはまだ早い」
 戦場に立てるのは十ニ歳からだ。僕はその時十歳で、シナギの法を犯すことになる。
「ですが、陛下……」
 軍公という役割を与えられたのだから、陛下をお守りしないといけない。
「そこに隠れていなさい。敵が立ち去ったら、私の刀を持ってすぐに逃げるんだよ。良いね?」
 陛下は、いつもと同じように、僕の頭を撫でてくれて、それがまたとても悲しかったのを覚えている。僕は十歳だった。だから、陛下がここで死んでしまうことが分かっていた。
「大丈夫だ、大丈夫だ」
 何が大丈夫なのかは分からなかったが、封じ込めてきた怖いという思いだけが溢れてきた。我慢していたのに、涙が流れてきた。自分が死ぬかもしれないと思うのも怖かったし、陛下が死ぬのも怖かったし、姿が見えない姉と兄が死ぬかもしれないと考えるのも怖かった。
 陛下はたくさんの兵士に囲まれて、最期まで果敢に戦った。怒号と叫び声が響いた。血が飛び散った。
 誰もいなくなってから、僕は血塗れでズタズタになっている陛下に近付いた。肉が張り裂けていて、内臓が飛び出していた。気持ち悪かったし、おぞましかったし、怖かった。周囲にも目を背けたくなるような兵士の死体があった。僕は血塗れになりながら必死に探した。
 死んだ兵士のぎょろりとした目の先に、血だまりの中に、目当ての物はあった。美しい漆黒の刀は真っ赤に染まっていた。僕は刀を拾い上げた。
 血塗れの死体の中で僕だけが生きている。僕は恐ろしくて近くの茂みに隠れた。怖かったのだ。僕は声を出さずに泣いていた。

 それからというもの、別ればかりが続いた。

「セーレ、あとは頼んだ」
 ずっと一緒にいてくださった私たちの王太子殿下は、エフィス兵に連れ去られてしまった。
「殿下、どうかいかないで下さい。これは罠です」
 会談のため、という名目だったが、帰って来ないことはだれの目にも明らかだった。
「だからこそ、“あとは”頼んだ、と言ったのだ。分からぬか? しかし、勘違いするな。私が死ぬことはない。迎えに来い。良いな?」
 王太子殿下は表情を崩さず、人を安心させるような僅かな笑みを浮かべ、僕に向かってそう言った。
「わたしが代わりに……」
 僕はその時、怖かったのだ。陛下もいなくなって、殿下もいなくなるのなら、自分がいなくなりたかった。
「お前に私の代役が務まるか?」
 王太子殿下はそんな僕の心をお見通しだったのだろう。僕のことを鼻で笑い、それだけ言い残した。そして、エフィス兵に腕を掴まれ、城から出て行ってしまった。背筋を伸ばした細い背中を、僕は今でも覚えている。


 それだけではなかった。
「馬鹿野郎、何故お前が生きている。何故、お前が軍公なんだ。俺が、いや私たちがどんな気持ちで“軍公”に権力を渡してきたのか分かっているのか」
 あの人は、今までに見たことがないような剣幕で言った。
「答えろ、セーレ」
 詰め寄られ、壁に押し付けられた。殴られることはなかったが、殴られても殴られなくても、辛いことには変わりなかった。
「泣いていたら、全てが済まされると思うなよ。陛下も殿下も守れないで、何泣いてやがる」
 彼はいつも優しかったが、我慢の限界だったんだろう。
「ごめんなさい」
 許されないことは分かっていたが、そう言うしかなかった。彼は僕を置いてシナギを去って行った。どこに行ったかは分からない。会いたいと思うが、同時に会うことが怖い。


 今までは、優しくしてくれた人が辛くあたるようになった。しかし、支えてくれる人も僅かながら存在した。
「陛下と殿下の命は重いよな……」
 シャラムは、昔から僕には厳しかったが、一人で泣いている時に手を差し伸べてくれた。泣いているだけだった僕の面倒を見てくれた。
「セーレ、お前はよく頑張った。あいつらが何を言おうとな」
 その言葉を受け入れて救われた。今はその言葉を拒むことができるが、その時は、存在していることだけで精いっぱいだった。その言葉を受け入れて、何とか生きていることができた。
 僕は強い子どもではなかった。だから、王と王太子を一度に失ったことは、僕には耐えがたいことだった。
 王を守って死んだ軍公の跡を継いだのは、人を殺せぬ軍公。全ての死を背負うはずの軍公だけが生き延びた。死ぬべきだった軍公に対して、周囲の視線は冷たかった。


「そんなことがあったのか。それは大変だったなぁ。ラストとシャラムも大変だろうが、あいつも大変だろう。あいつらの中では何もなかったんだな」
 城に帰ると、レイヤが出迎えてくれた。自室で全てを話すと、彼はそう言った。
「把握していません。万一何かが起きても、シャラムが死ぬことはないので」
 おそらく、何も起こっていないだろう。シャラムは感情的なところもあるが、そみまで怒るとは思えない。この件に関してだけだが、エース・アラストルも、シャラムを刺激することはないだろう。
「仲裁してやる気はなかったのか?」
 そう尋ねてくるレイヤに対し、首を横に振って答える。
「あの二人は派手にやりますよ。止めるのは困難を極めます」
 喧嘩の中で仲裁など、ご免被りたいことだ。シナギでも血気盛んなあの二人の中に入ろうものなら、剣の腕などいくらあっても足りない。
「そうだなぁ、お前は喧嘩に弱かった」
 けらけらと笑うレイヤを否定できないのは、僕が自分でそれを認めなければいけないほど、喧嘩に弱かったからである。
「姉兄に泣きついている姿しか思い出せない」
 下手に反論しても面白がられるため、兎に角沈黙を押し通す。それが分かっているのは、僕が何度もこのような状況を経験したためである。
「しかし、よく似ている」
「それでも、あの人はただの人間だった。王の命は重い」
 僕は間髪いれずに言った。エース・アラストルの師はただの人間だ。しかし、僕の場合は、国王だった。それも、エフィス共和国に攻められている時の国王である。
「ただの人間か。ああ、そうだ、ただの人間だ」
 レイヤは何がおかしいのか、その言葉を繰り返した。そして、彼は意味深に笑う。
「エースを手引きしたのはあなたですよね?」
 採用は全て隊長に任せている。シャラムが彼女を入れるはずがなく、また、ティーラも初対面だった。残っているのはレイヤだけだ。
「あいつの剣の師は俺の友人でなぁ、死んでしまったが、良い奴だった。あいつが選んだ子だ。どんな子か楽しみにしていたら……まぁ、期待通りで良かったな」
 本当に自由な人だと思う。勝手にエフィス人を城に入れて、素知らぬ顔で彼女のことを観察していたということだ。そう思うと、何故か自分が損をしているような気分になる。
「これで満足ですか?」
 友人の弟子である彼女は迷うことなく前に進むことを選んだ。それを見ることができたのだ。しかし、僕の予想は外れる。
「ああ、満足できるはずがない。まだまだだ。お前と同じだな」
 わしゃわしゃと頭を撫でられて、嫌な気持ちにはならなかった。
 レイヤは僕に武器の使い方を一通り教えてくれた。出来の悪い僕の武器の師など誰もやりたがらなかったが、レイヤはそれを引き受けてくれた。できないということを開き直っていた僕は、よく怒られた。まだまだ伸びる、と彼はいつも言っていた。
 確かに僕はあの時と見違えるような力を手に入れた。周囲は冷たかったが、努力した。本当に僅かだったが、応援してくれる人もいた。僕は努力した。僕は読み書きができなくて、本を読むことができなかった。だから、一晩中とっかえひっかえ人を変えて、本を読んで貰った。当然の如く、一回読んで貰っただけで記憶して、それを整理して頭に定着させていかなくてはいけなかった。昼間はずっと刀を握っていた。陛下の刀は、当時それ程体の大きくなかった僕には重くて仕方がなかったが、僕は耐えた。
 こうして、僕は"私"になった。

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