ライアルに止めを刺そうとしていた将軍は、勢い良く吹き飛んだ。驚いてライアルを見る者の目に映ったのは、黒い髪の小さな少年。
「ライちゃん、大丈夫?」
意識も遠いだろうライアルに、小さな少年は必死に闇の治癒魔法をかけていた。ライアルの肩に当たらなかった小さな球が、ふわりふわりと飛んでいる。カシワはライアルの元へ走り、スザクの傍らでできる限りのことをしようと、杖を握っていた。カシワの起こした、静かな風が流れる。
そして、ライアルに気を取られていて、ほとんどの者は気付かなかった。勿論、小さな少年もライアルに意識を完全に奪われている。ライアルの背後に、再び銀が煌いた。
強い金属音が鳴り響く。将軍のナイフを止めているのは、フレアの大きな杖と、いつの間にか現れた、黒い大鎌だ。杖がすらりと抜かれた瞬間、大きく鎌が動いた。それは、逃げる金色を追うようにして動き、ついにそれを壁に叩きつけた。
壁際に寄せた将軍の首に、漆黒の大鎌の刃を当てながら、アンは振り返った。
「ふふっ、ジェン先生。何をしているのかしら。怪我でもしているの? もし、リィド一人だったら、ライアル諸共、彼もやられていたでしょうね」
アンの口元に浮かぶ笑みは、いつもと変わらない。しかし、アンの目は決して笑ってはいなかった。それは、酷く冷たい目だった。それは、彼女に似合わず、酷く幼さの残る目だった。
「そうでなかったとしたら、流石キナの弟子、ということかしら。ふふっ、打算的なところも、利己的なところも、本当にそっくりだわ」
呆然とアンを見るジェンに構わず、相変わらずの調子でアンは続ける。
アンが怒ることはある。それを、ほとんどの者が見たことが無いわけではない。しかし、アンは今までとは全く違った。遠まわしな物言いと、冷たい目。そして、それを向けられたのは、ジェンなのだ。
「アン、やめてくれ……」
ライアルの声は、絞り出したようなものだった。広がる血は止まらない。スザクの必死の治癒も空しく、ライアルの出血は留まるどころか、酷くなっていた。それでも意識があるのは、ライアルの化け物のような生命力あってのことだろう。
「ライアル、今のあなたに、私を止める権利はないわ。ふふっ、自分の命も守れなかったでしょう。私は、あなたの命を守らなければいけないの。あなたの命を守れなかった者に、指図はされないわ」
アンはそう言い放った。ライアルを労わることも無く、先程の冷たい目を向けただけだった。ライアルの虚ろな目に、アンの鋭い目が映った瞬間、ライアルはアンから目を背けた。アンが自分に見ていたものを悟ったかのように、ライアルはただ、下を向いていた。
アンはすぐにジェンとリリーの方を向いた。その目は更に冷やかになっており、微笑だけが酷く優しい物になっていた。
「ジェン、リリー。あなたたちは、気付かなければいけないわ。あなたたちが、ライアルを戦わせているのよ。雷の国の時もそう。ライアルの戦闘能力は高いわ。そして、あなたはライアルが戦っている時、何をしていたのかしら」
アンは一息吸っただけで、すぐに続ける。
「ライアルは人殺しよ。私も同じ。当然、悪いことだとは思っているわ。でも、あなたたちに、私たちを責める権利はあるかしら? ライアルは優しいわ。思っていても、口には出さない。でも、私は違うわ。あなたたちは、戦場を見たことがあるのかしら? 牢獄の無い魔界で、誰かが罪人たちを処理しなければいけないことを知っていて、言っているのかしら? そんな役割に、就くことを強要された幼い子どもが、自分の両親を殺した者たちの幸せな暮らしを見て、何も思わないはずがないわ」
アンは決して声を荒らげることはしない。ただ、その言葉は、冷たく鋭利な刃物のようだった。
「人殺しは許されないことよ。でも、あなたたちに、私たちを責める権利はあるのかしら?」
誰もが黙っていた。リィドはアンの方を見ながら、視界にちらつく将軍から目を逸らすかのように、ライアルの方を見ていた。将軍は、血を流すライアルと、ライアルの傍から離れようとはしないスザクを見ていた。リリーとジェンは、アンの方を向きながらも、目は、アンの目を捉えてはいなかった。
「ライアル、この二人に、罪人を始末させれば良いわ」
その言葉は、そんな空間に響き渡った。しかし、すぐにその静寂を突き破る者が現れた。
「アン、生意気なのは分かってる。でも、私は、奴らに人を殺めさせるのならば、私が奴らに憎まれ続ける方が増しだ。それが、たとえ、罪滅ぼしにすら、なってなくてもな」
途切れ途切れの声は、聞き取るのがやっとのものだったが、紅い命の液体とともに絞り出された声は、強い芯があった。
アンの言葉を聞いた後の、一種の陶酔感を破壊された者には、ライアルの声がどれだけ響いたのかは計り知れない。陳腐な言葉だった。ただ、リリーとジェンは顔を見合わせ、どう考えてもお人好し過ぎる「仲間」の発言は、馬鹿なぐらい優しいと思っていることを、確認した。
「漸く、分かったようね」
アンの、突き刺すような目が緩んだようにぼやけた。一瞬辺りに闇が訪れる。そして、明るくなったところですかさず、部屋の隅の壁に凭れていた少女が口を開く。
「アンさん、名演技でしたよ」
「言い直しなさい」
アズサの言葉に、アンは例の笑みも浮かべず、返答した。
「アンさん、名演技です」
演技で騙されたのは、当然ジェンとリリーではあるが、不平を言うべきは別の人物である。
「助けてくれるなら、もっと早く助けてくれ。頭が痛い」
漸くアンに止血して貰ったライアルは、体勢を起こすこともせず、真紅の絨毯に体を横たえたまま、そう言った。顔までも血塗れのライアルは、カシワの持っていた布で、顔を拭いて貰っている。
「ふふっ、こっちの方が、臨場感出ると思って」
軽く言われたライアルは、咽始めた。血が口の中に入ったのか、と尋ねるカシワに、ライアルは首を振る。
「私は死にかけていた」
「そのぐらいでは死なないでしょ」
アンは軽く言い、ライアルは、黙り込んだ。死ぬ、死なない以前の問題で、ライアルは長い間、死ぬほど痛い思いをしながら、自分の所為で責められる仲間をどうすることもできず、申し訳ない気持ちと自分の無力感で、これ以上になく苦しんだのだ。
「アン、その執着心。どこから湧いてきたのかね?」
妖界王は、玉座にゆったり腰掛け、相変わらずの余裕の微笑を浮かべ、長い赤毛をさらりと撫でるようにして動かした。
「私は、十三年前、猛火の中から救った赤ん坊を、死なせる気は無いわ」
その言葉に、敏感に反応したのは、ライアルだった。
「まさか、私をレンに預けたのは?」
「そうよ、ライアル。私たちは、十三年前に会っているのよ。あなたの両親が死んだ夜にね。サクは、私に頼んだわ。我が子に、チャンスを与えろ、と。でも、あなたのような者は、キナのように人間には育てられない。だから、荒地で争いに敗れて、群れから見放された妖狼王、レンにあなたを育てるように命じたの」
ライアルは、そうだったのか、と言って頷いた。続いて、黙っていたジェンが尋ねる。
「ハートレスボックスは?」
「ハートレスボックスは、生きていた時の痕跡を集めた幻影よ。所詮、幻影。生前のサクは、私が殺す気で掛かっても、ある程度は対等に渡り合える程の力の持ち主よ」
アンには、確かな自信があるようだった。不敵に口元が歪められる。
「じゃあ、お待たせしました、ということで良いんだな?」
ライアルはにやりと笑った。
「立てますか?」
ライアルの近くに駆けつけ、そう尋ねるジェンに、ライアルはあの子どもっぽさを孕んだ独特の笑みを浮かべる。
「私を誰だと思っている」
ぐいっと立ったライアルの目は、妖界王をしっかりとジェンを見ていた。ジェンも微笑む。ライアルが立った所為で、僅かに濃くなった影が、ジェンの目の色を更に深くする。
「ふふっ、戦力的に言うと、あなたの活躍が四割は必要よ。無理しなさい」
ライアルを貧血にさせた張本人は、不気味な笑みを浮かべながら、他人事のように言った。ライアルが、私が四割出して、他はどうやって分けるんだ、と尋ねる。
「ふふっ、残り四割が私、二割がリィドね」
「俺たちは?」
そう尋ねたのは、カシワだけだった。アンは不快な色を見せることなく、答える。
「ふふっ、戦力だけで勝てない、っていうこと、身に染みて分かったでしょ」
カシワも、ジェンも、リリーも、一番大きな仕事はやったのだ。あとは、残った三人の大きな仕事を、手伝えば良いのである。
「私はこの貧血状態では、アンと同等の力は出せないぞ」
ライアルは、目を細めた。しかし、アンは相変わらずの笑みで即答する。
「出せるじゃない。あなたの力が必要なの」
ライアルの顔色が変わった。血の気の引いたような顔だった。その意味に気づいた者が、真っ先に口を開く。
「相変わらず、肝心なところで役に立たないのは変わらないね。まだ怖いのかい? 自分を守るために、出し惜しみは良くないよ」
「あなたは、いつまで姉に支配されているのかしら?」
「スザクね、ライちゃん強くなったと思う。大丈夫大丈夫」
それは、ライアルとアンとフレアとスザクの間でしか、通じないことだった。しかし、その話の内容は、過去にどういうことがあったのか、仲間に悟らせるのには、十分すぎるものだった。
「何だか知らないけどね、出し惜しみしないでくれるかしら?」
リリーは、ライアルに近づき、ごつんと頭を叩く。
「良い子でいる必要は無いでしょう」
ジェンは微笑む。その裏に、いつも人の言うこと聞かないくせに、こういう時だけは聞くのですか、というジェンの心の声が篭められている。勿論、ライアルは理解する気は無かったが、そこまで理解した。
「元々、言われたことを、はいはいって聞いている性格か? 姉さんと仲良くないみたいじゃないか。仲悪い奴に言われたことは、大したこと無いって、相場が決まっているんだよ」
最後に来たカシワの言葉。おそらく、ライアルが力を出した時、この中で一番危険なのは、カシワだ。そのカシワが、そう言っている。ライアルは大きく息を吸った。
「お前ら、自分の身だけは守れよ」
それは、ライアルが一歩前に進んだということを意味していた。その先に何があるのかは、誰にも分からない。
「四楼に消された炎が、漸く燃え上がるのか」
妖界王は笑った。ライアルはにやりと笑ってから、恭しく頭を下げる。
「陛下、つまらぬ茶番にお付き合いして頂き、ありがとうございました」
そう言ってから、ライアルは再び大きく息を吸う。空気が収束した。
「壮大なる龍の力よ、我は誇る、風の翼とともに。今ここに、龍の炎は燃え上がる」
何を為す物なのか分からない詠唱。しかし、空気が歪むほど強い力を使うことが、分からない者はいなかった。巨大な圧力が掛かった状態のまま、ライアルは仲間の方を見た。
「ふふっ、貧血治ったでしょ?」
「ライアル、目が……」
ライアルの目は、青紫で、普段よりもずっと細かった。そして、その目は、人間のものではなかった。むしろ、人間よりも、スザクによく似た目だった。
龍の目だ。未だに魔法関係に疎い、カシワまでもが、そう確信した。
「お前ら死ぬなよ」
「ライアル、しつこい男は嫌われるわよ」
リリーにあっさりと言われ、ライアルは押し黙る。
「あっさり行こうぜ。あっさり。まぁ、しつこくても、好かれることが無いだけで……」
「さぁ、始めようか」
カシワのフォローになっていないフォローを無視し、ライアルは妖界王を、その青紫の目で見た。