ジェンは、一人部屋だった。妖界王の配慮だ。確かに、夜、ライアルとフレアとジェンの三人で寝るとなれば、心穏やかにはいかないだろう、ジェンは思った。
ジェンとライアルは勿論のことだが、ライアルとフレアも、厄介なことになっている。あの約束が結局のところ、ライアルとフレア両方を、生きるため、という理由で、暗殺業に追いやったわけだから、二人の間に何もないはずがない。ライアルたちは、直接されを言っていなかったが、あれが、全ての始まりといっても良いのだ。
ジェンは、ベッドに腰掛け、天井を見た。品の良いシャンデリアが掛かっている。ベッドも大きく、ふかふかだ。流石、妖界城である。
「赦すつもりかな」
ふと、声が流れてきた。ジェンは、声の流れてきた方に顔を向けた。椅子に、漆黒のローブに身を包んだ妖界王が座っていた。入浴後なのか、髪は半渇きだ。
「ええ、心が楽になりますから」
ジェンは驚いたが、すぐに普段の笑みを浮かべ、そう答えた。
「憎むのは辛いと」
妖界王が、ぐにゃりと口元を歪める。間違ってはいない。
「僕は、あの時ですら、自分がライアルを憎んでいるのかが分からなかったのです」
ジェンは、ふわりと笑った。
ライアルを問い詰めている時ですら、ジェンは自分が、ライアルを心から恨んでいるのかが分からなかったのだ。そうかと言って、聞かずにはおれなかったのだが、ライアルより、遥かに動揺していたのは確かだ。
「ただでさえ、人を憎むことは辛いのです。僕は、憎み続けることもできませんし、完全に赦すこともできません。僕は、弱いです。憎むことも、赦すことも、結局は選べませんでした」
妖界王は、黙って聞く態勢をとっているようだった。堂々と椅子に座り、口元に笑みを浮かべるその姿は、面白い、続けてみろ、と言っているかのようだった。
「ですが、今からが僕の勝負です。いかに、これを悟らせないようにするか。どれだけ隠し続けることができるか」
ジェンは、にやりと笑った。妖界王も、笑みを深めた。
これは、ジェンの戦いなのだ。アンが言ったことは、これからも適用され続けるだろう。力を持つライアルは、最前線で戦う。それと同じように、ジェンは精神的に戦わなければいけない。
「僕は、彼のこれから歩む道が、平穏であるように、と思うことにします」
ライアルは、ジェンの戦いを望んではいないだろう。それがジェンにとって一番楽だったとしたら、ジェンが戦いから逃げ続けることを望むだろう。
それと同じなのだ。ライアルが、平穏な道を歩くことはないだろう。それでも、ジェンはそれを望む。
「傍で見守りながら、己の心を隠す、と言いたいのかね」
妖界王は、こつん、と机を叩いた。
「どうしようもない奴ですが、僕の生徒ですので」
ジェンは、そう言って、くすりと笑う。
どれだけ、道を踏み外しても、ライアルが魔法学校に留まる限り、ジェンの生徒であることは変わらない。たとえ、事務的に築かれた関係だとしても、そこに重みがつかないはずがないのだ。
「その道を選ぶなら、突き進めば良い。だが、それならばその道を極めろ。お前の生徒は、積み上げてきた罪以上の物を背負うことになる」
妖界王は、語るのが楽しくて仕方がないようだった。シャンデリアを見上げる口元が、弧を描いている。
「報いを受けるのだよ。魔界の全ての罪を背負ってね。あれは、魔界の子になる、否、魔界を愛す、全ての人々の子になるだろう」
妖界王は、朗らかに笑い、歌うように言葉を紡ぐ。
「親を亡くし、守手になった魔界の子どもは山ほどいる。そうして得た力で、復讐を果たした子どもも大勢いる。魔界の闇を通り、痛みを受け、痛みで返していた」
魔界の闇を知り、魔界を蝕む毒となり、魔界を支える柱となった少年。ジェンはゆっくりと息を吐く。十四にして、一体何人分の人生を送っているのだろう、と。
「ランゴクよ。夜は明けた。光明の時代は、暗黒の時代以上の痛みを伴うだろう」
それでもお前は、親の仇を支え続けることができるかな、というように、妖界王は笑った。
「そうですか」
ジェンは俯いた。しかし、すぐに彼特有の穏やかな微笑を湛え、顔を上げる。
「それでも僕は、彼が友人に囲まれて、ずっと笑っていられるように、と思います」
たとえ、その道が険しかろうと、人に好かれるライアルが、真に孤独になることはありえない、とジェンは思っていた。彼には不思議な力があるのだ。特別塔で、一番友人が多いのも、ライアルだろう。
妖界王は、ジェンの心の内を読んだのか、声を上げて笑った。
「ハリネズミは、姉と、姉が信頼する唯一の人間であるお前の剣となることを望むだろう」
ハリネズミ。その言葉に、噴出しそうになりながらも、ジェンは何も言わなかった。
ライアルが、人一倍姉思いなのは、ジェンも知っている。ライアルは、いつだってキナの命令されたことをこなしていた。そのほとんどが、授業中というのは頂けないが、キナの利益と雷の国の利益との間で、唸っていることも多々あった。
「だが、易々と鞘に収まる剣でもない」
それは、ジェンも分かっていた。
「魔界の中枢を親族で固めた一族、さらには、四界に逆らい続けた男の血を引く。それを、誇りに思うように感じるようになれば、どうなるか分かるかね」
血と精神は関係がない。しかし、その血を意識するようになれば、人は流れる血に影響される。
ジェンは、四界という言葉が気に掛かったが、聞いたところで、教えてはくれないことが、分かっていたので、何も訊かなかった。
「与えられた状況にすら満足せず、自分で与えた状況にも満足できず、ただ、高みを目指す。その道が、孤独でないはずがないだろう」
笑顔の妖界王は、ジェンを試していたかのようだった。
ジェンはゆっくりと息を吐く。
「不器用な師匠と、嵐を呼ぶ生徒を持つと、苦労しますね」
ジェンは、あの姉弟を最もしっかりと支えられるという自覚があった。アンは、助言を与えるだけだ。支えることはしない。
ジェンの言葉を聞いた妖界王は、結局、一度も笑みを絶やさずに消えた。ジェンは、座っていた椅子を整えた。アンと似ているな、という言葉を飲み込みながら。