エース・アラストルの訪問の翌日、俺は軍公の部屋にいた。
「それで、何故俺が留守番で、お前が行くんだよ」
 目を通していないのであろう報告書が、山積みになっているのに目がいくが、今はそれどころではない。
「教養を身に付けるのも大切だろう」
 軍公は涼しげな顔で言った。
「絶対違うだろ」
 それで、本当のところは、と軍公に詰め寄る。すると、軍公は溜息を吐いた。
 溜息を吐きたいのは俺である。
「実のところ、あの遺跡で、ランス・セレシアン第一師団長を見たという噂があってね……目当ては、彼女じゃない?」
 ランス・セレシアン第一師団長。エース・アラストルは、第一師団所属だったらしい。実際に、面識もある。
 軍公は、面倒臭そうに、そう喋った。
「尚更危険だ」
 こちらは、エース・アラストルという爆弾を抱えているのだ。もし、彼女の所為で、軍公に何かあれば、シナギは混乱する。
 俺がそう言うと、軍公の口元が弧を描いた。
「一回手合わせしてみたくてね」
 軍公は、俺の心配を嘲笑うかのように、さらりと言った。
「お前は軍公だ」
「だけど、シナギ人だ」
 ひんやりとした声だったが、口元に浮かんでいたのは、不敵な笑みだった。鳶色の双眸は、しっかりと俺の方に向いていた。
「行って来いよ」
 俺は諦めた。軍公がこうやって笑った時に、止めることができた例が無い。
「城のことは、頼んだよ。シナギ人は、城攻めに弱いんだ」
 軍公は、笑みを浮かべたまま、あっさりと言ったが、中に篭められた意味は大きかった。
「あの時からな」
 俺は静かに付け足した。
 王の死んだあの戦争から、人々は、城を攻められることを恐怖とした。
 あの頃には、既に剣を握っていた俺は、今でも覚えている。最期まで戦い続け、崩れ落ちた王。ほとんどの男と、多くの女が死んだ。戦えない者たちだけになって、漸く、シナギは降伏した。
 残された者たちが、どれだけ恐怖を感じたか。それを一番良く理解しているのは、俺の目の前にいる男だ。
「大丈夫。僕は負けない」
 軍公は、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、頼むぞ。王は、お前だけでも生き残って欲しいだろうからな」
 王が最期の希望を託した三人の若者。今、この城で俺たちと共に戦っているのは、こいつだけなのだ。
 軍公は机の上に置いてあった王の刀をゆっくりと手に取った。


 古臭い香り漂う遺跡。私は、砂埃を丁寧に払い、刻まれた文字を調べていた。
 とりあえず、刻まれた文字を写し取っていく。解読は、城に戻ってからでもできる。もう少しすれば、近くの町で昼食を摂るために、呼び出されるはすだ。それまでにできるところまでやろう、と必死になってペンを走らせている時だった。
 私は、突然の生き物の気配に、振り返った。手は自然と刀に掛かっている。しかし、要らぬ行動だった。
「ここ遺跡だから、汚されると困るんだけど」
 音無くこちらに歩いてくるのは、巨大な灰色の犬だった。狼かもしれない。しかし、単独行動をしているところと、私の方へ平気で寄ってくるところからして、狼の可能性はきわめて低い。
「ちょっと、ここにあんたの好きそうなものは無いよ」
 私は立ち上がって、犬のほうへ近づいたが、犬は、歩みを止めただけだった。そして、その深い黒眼を、私の方に向け、座り込む。
「本当に、汚されると困るんだよね」
 私が、刀を抜くと、犬は背を向けた。そして、ゆっくりと立ち上がり、のろのろと外へ出て行く。その立ち振る舞いは、犬とは思えない。
「食えない犬だね」
 銀の刃に驚いているというよりも、面倒臭くなったから出て行った、というような犬。私は、草原を歩くその灰色が遠くなっていくのを見ながら、そう呟いた。


 数人の気配が近づいてきた。私は、昼食か、と思いながら、研究セットを静かに床に置き、刀だけを持って遺跡の入り口の方へ歩いていった。草原には、ざわざわと風が流れている。
 しかし、ふらりと遺跡から出た時、私の期待は、裏切られた。
「エース、戻って来いよ。今なら、師団長も……」
 思わず、げっという言葉が出そうになる。エフィス共和国第一師団だ。人数は五人。しかも、五人とも、それなりに仲良くやっていた奴らばかりである。
 一体、解放軍の面々は何をしているのか。到着早々、一人でどこかに行ってしまった軍公を、兵士たちが探していのだろうか。どこまでも役に立たない兵士と、全ての元凶である軍公。本当に困った人たちである。
 私はゆっくりと息を吐いた。
「戻る気はないよ。エフィス共和国ぶっ潰すまではね」
 私は刀に手を掛けた。
 私は戻らない。戻る理由も無いし、シナギ解放軍を抜けるのは何だか癪だ。まだ軍公にも勝っていない。元々、私が軍にいたのは、研究費を稼ぐためだった。御国を守りたいなんていう、高尚な思想、端から持ち合わせてなどいなかった。
 かつて共に戦っていた者たちは、私の様子を見て、刀剣を向ける。
「私は、強くなっているよ」
 そう私が微笑んだ直後、金属音が響き渡った。

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