草原に風が流れる。
 目の前にいるのは、ランス・セレシアン第一師団長。噂は本当だったらしい。
 短い赤毛は、草原の中で浮き立って見える。体は僕よりも大きいし、当然、年も上だろう。士官学校上がりの使えない軍人ではない、と言われているが、それも十分に納得できた。
 纏う空気が違う。
「まさか、軍公がやってくるとはな」
 それはこちらの台詞だ、と僕は思ったが、何も言わなかった。
 とりあえず、向こうも一人でいるらしい。遺跡からは、少しばかり離れた場所。シナギの草原に流れる風は、奇妙な緊張感を煽る。
「戦いをしないのが、民のためだとまだ分からないのか?」
 熱血漢。
 エース・アラストルは、この男をそう表していた。シャラムも頷いていた。そして、僕も頷けた。
「命を擲ってまで、奪い返すものなのか?」
 風を切る刃を止め、僕は目の前の男を見た。そして、溜息混じりに刀を振り払う。
「水の無い池で、我々は喘いできた。水を取り返そうと、奮起するのは、当然のことだろう」
 間合いを取り、小さく笑う。
 この男は知らないのだ。
 共和国の議会参加は愚か、自治政府は、エフィス人しかいない。シナギの伝統的住居は破壊され、エフィス式の「良い住居」が建てられる。エフィス人は、良い土地に次々と入植し、シナギ人は未開の地に追いやられる。
 それが、いざという時には、男女共に戦い、何千年もの歴史を持つ誇り高い民族に、どれだけ屈辱的で、どれだけ受け入れがたいものかということを。
「エース・アラストルを利用するのも大概にしろ。あいつは女だ。本来なら、血溜まりなど、一度も見ずに、過ごすはずの者だ」
 僕は鼻で笑った。この師団長は、馬鹿だ。
 エース・アラストルの剣の動きを見れば、すぐに分かる。彼女は、手合わせよりも、戦場で、人を斬る時の方が、「らしい」のだ。それどころか、手合わせする時よりも、戦場の方が格段と強い。
 確かに、力は男に負ける。しかし、戦場で生きるか死ぬかは、力だけで決まるものではない。いくら強くても、呆気なく死んでしまうことだってある。
「利用されているんだ。利害は一致している」
 咎められるべきは彼女の方だ。
「お前らの文化に、女性を大切にするなんてものは無いのか?」
「あんたは剣士かい?」
 僕は、ついに口角が上がるのを感じた。
「女である以前に剣士である人間を愚弄していると思うよ」
 エース・アラストル。人としては尊敬できないが、剣士としては十分に評価に値する。まだまだ剣の使い方も甘い。しかし、あの剣士は強くなる。
「全くだよ。たまには良いこと言ってくれるね、軍公殿」
 流れてきた声は、低めではあるが、はっきりとよく通る声だ。
 ランスは、呆然と草原に立つ女を見ていた。銀色の髪を高く括り、上品とは言いがたい笑みを浮かべ、頭から血塗れの剣士。既に手には刀が握られており、その刀からは、血が滴り落ちていた。
「遅かったじゃないか」
 僕はにやりと笑ってそう言った。


 エフィスの第一師団長と、シナギの軍公。草原の波の中、二人は立っていた。師団長は、呆然とこちらを見てから、刀を鞘に戻した。
「こっちだって、色々と相手をしていたんだよ」
 私は、二人の男を順順に見た。
「お前、昔、共に戦った仲間を……」
 セレシアン師団長は、正義の味方のように呟いた。けしかけておいて、何を言う、と私は思ったが、黙っておいた。面倒臭いからではない。彼の名誉のためだ、ということにしておく。
「殺しては無いよ。足は使い物にならないと思うけど。それよりさ、そいつを斬るのは私だから」
 私は軽く返した。
 殺しては無い。団長が連れてきたのは、私と親交のある人たちだった。当然、私の方も本気は出せないが、向こうも出せない。私以上に、だ。あとは、お互い、戦場で、会わないことを祈るだけだ。
「お前は何のために命を懸けているんだ」
 軍公の隣まで歩き、刀を抜くと、団長は尋ねてきた。彼にしては、異様に静かな声だったが、迫力はあった。むしろ、怒鳴られるよりも、威力はあった。
「私が一番に守るべきは私。命は惜しくないけどね、私が一番大切なのは私であって、私は私のために戦っている」
 私は、目の前の男を見据えた。
 私は、誰かのためには戦っていない。戦うということは、命を懸けるということ。それは、死を覚悟することと同じことだ。
「自分のために、命は惜しまないけど、人のために投げるなんて、絶対嫌だね。人に投げることができるほど、私の命は軽くない」
 命は重い。私が投げるのは嫌だし、投げられた方も、辛いだけだ。
 師団長は黙って聞いていた。しかし、私が喋らないと分かると、静かに言った。
「エース、戻って来い」
 その声は、重かった。真摯だった。
 ランス・セレシアン師団長。この人が率いる師団に入ることができて良かった、と私は思っている。ここまで来た私に、戻って来い、と言えるそ器の大きさも、本当に凄いと思う。
「戻って何をしろって言うの? 自分の広げた領域を守ることだけしか考えていない共和国と、現状を打破しようとしている解放軍。私に合うのはどっちでしょう」
 私はにやりと笑った。崇高な理由があるわけではないが、今更戻る気にもなれない。私だって、勢いだけでここに来たわけではない。そもそも、刀で人は守れない。守るなら、十手を持てば良い。刀は刃だ。その人を守れても、人を守ることはできない。
「お前の両親はエフィスにいるのだろう。そして、お前は、一人娘だったな。一人娘を戦場どころか、国敵に送りたがる親がどこにいるか」
 何故知っているんだ、この男は、と私は思ったが、黙っておいた。同じ師団に私の身内を知っている人がいる。おそらく情報源はそこだろう。
 確かに、私には両親がいる。さらに一人っ子だ。心配を掛けている自覚はある。それに、血塗れの娘など、望んでいないことも分かっている。
「両親の言うことだけを聞いていたら、碌な大人にならないんだよ」
 私がはっきりと言ってやると、横槍が入った。
「君は少しぐらい聞いても罰は当たらない気がするけど?」
「五月蝿いね」
 口元の笑みが非常に腹立たしい。今さらだが、敢えて空気を読まないタイプの人間だということだ。
「お前の我侭は度を過ぎている。それを全て背負い込めるのか?」
 師団長は、空気を緩めず、そう尋ねた。今はどうでも良いが、我侭とは失礼だ。
「私は、有言実行を心がけているから」
 今更だ。護身のために、刀を持ったわけではない。私に剣を教えてくれた人も、護身のための剣なんて教えてくれなかった。
「改心する気は無いのか」
 灰色の眼光は、鋭利な上、普段、兵士たちと談笑している姿とはかけ離れた、怜悧な色があった。
「何を改めるべきか、見当もつかないね」
 私は鼻で笑った。すると、師団長は、ゆっくりと息を吐いた。刀に手を掛け、ゆっくりと抜いた。ギラリ、と銀の刀身が露になる。
「部下の不始末だ。上司が責任を持って片付けなければならない」
 エフィス人特有の灰色の双眸の色が変わった。流れる空気も変わった。私のよく知る空気だ。
 部下の失態は師団長の責任だ、というランス・ラレシアン師団長の目には、出世がどうこうなどという、邪念は無かった。彼はそう言う人間なのだ。良い師団長だ、と思う。
 しかし、そんなことを言っていられる立場ではない。
「ねぇ、軍公殿。私って、何か問題あることしたっけ?」
 へらっと笑って隣を見れば、我らが軍公殿は、白けた顔で、私の方を見た。しかし、白けた顔は一変し、不敵な笑みに変わる。
「君の存在に問題があるんだろ」
 さらりとした声は相変わらずだった。
「あんたにだけは言われたく無いね」
 軍公の闇色の刀が黒光する。
「隊長、犬が……」
 走ってきた男は、息を切らせながら言った。
「大きな犬が野営地にやってきて……兎に角早く来て下さい」
 師団長は、こちらを一瞥もせずに走り出す。こういうところにも、人柄が出るというものだ。
「あの馬鹿……」
 私は溜息を吐く。先程見た、大きな黒犬だろう。
 そんなことを思っていると、すぐ隣から声がした。
「そんなに人連れてきてないから、帰るよ」
 まだ、ぶつかるのは早いからね、というあっさりとした声が続く。
 あぁ、と相槌を打って、ふと軍公の方を見れば、軍公は、何かをじっと見ていた。その視線の先には、黒い毛並みの巨大な犬。
 何て奴だ。いつの間にやって来たのか、と思う。とりあえず、人間以上に要領は良さそうだ。
 しかし、そんなことを気にしている暇はない。ここに犬がいるということは、エフィス軍がやってきてもおかしくないということだ。
「走るよ。兵士は途中で拾う」
 そう言うと同時に軍公は走り出した。
「はいはい……あんたも着いておいで」
 言葉が通じるはずもないが、何か思うことがあったのだろうか。私がそう言うと、大きな黒い犬は、音無く後をついてきた。

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