親の喧嘩した子どもは、大抵、自室に篭る。自室が無い子どもも、どこかに篭る。ラスト・アエシュマも例外ではなかった。
 私は完全に閉められた扉に向かって言った。
「ラスト、私だよ、私。エース・アラストル。別に、他に誰もいないから……というより、奴らに、ここを荒させる気は無いから」
 私は、嘘を言っていない。むしろ、本音だ。
 サラとティーラだけなら良いが、エレシュキガル隊長が来れば、おまけに軍公も着いてくる。貴重な資料が保管されている図書館で剣を交えるなんて言語道断だ。そのような要因は、積極的に排除しなくてはいけない。
 ラストが、私のことを信用してくれたのか、ごんごん扉を叩いたり、叫んだりする必要は無かった。鍵が開く音がする。
 私は、すぐに扉を開け、遠慮なく中に入った。
 そして、ラストは泣いているようだった。断定はできない。しかし、顔を伏せていることからして、泣いているのだろう。
 私はラストに話しかけることなく、辞書とノートを取り出し、作業を始めようとした。その時だった。
「僕はシナギ人なんでしょうか?」
 顔を上げないのは抵抗だろうか。くぐもった声は、静かに図書館に響いた。
「ラストがシナギ人の方が良いと思うならなら、シナギ人っていうことにしておけば良いんじゃない?」
 ラストが顔を上げた。しかし、年の割りに落ち着いた雰囲気のある双眸が向けられたのは、温かみのある木の机だった。
 人種の分け目なんて、便宜上のものでしかない。少なくとも、私はそう思っている。大体、定義が人それぞれ違うのだ。
「大体、私はシナギ人じゃないんだよ。多分、一滴も血が入っていない。エフィス人がどうとかシナギ人がどうとか、知ったことじゃないし、むしろ、勝手にやっとけ、って思っているんだ。何人かで分けて貰ったら、私が仲間外れだからね。別に、仲間外れにされるのは構わないけど、何か良い気持ちしないんだよね」
 私は何人でもない。戸籍上はエフィス人だが、自分がエフィス人かと尋ねられれば、否、と答えることの方が多いだろう。当然、見つかったら、国家反逆罪とか何とかで捕えられそうだが、捕えられるのならば、もう捕えられているので、問題は無い。
「孤児なんですか?」
 言いにくそうに、ラストが尋ねた。気にする必要ないのに、と私は思うが、ラストはいつでも人を気遣う。
「両方とも健在。でも、両親が孤児だったんだよ」
 ラストは、そうですか、と短く答えた。私はその様子を見ながら、静かに辞書を捲った。
「ラスト、あんたには選ぶ権利がある」
 私は、僅かに声の質が変わるのを感じた。
「与えられていた物だけで満足していたら、面白くない。何を使って得ようとするかは人それぞれ。剣でも良いし、機知でも構わない」
 人間には、どんな風に生きるかを決める権利がある、と私は思う。結構侵害されていることも多い。でも、その権利は、大切なものだと思う。しかし、ラストは、自分を作り出す場所が狭い。それは、相対的にではなく、その広さでは、ラストは満足しきれない、という意味である。
 現に満足しきれていないから、こうなっているのだ。
「でも、剣は持っておくべきだよ。理由は、私よりもあんたの方が分かってるはずだと思うけど」
 シナギ人は、古くから武芸巧みな民だった。戦いがない平和な時代でも、彼らは武芸を磨いた。様々な武器を使った舞踊や競い合いは多彩だ。エフィスが侵略を始めた頃から、それは消えていき、戦うために武器を持つようになったが、それでも、最も重要な娯楽だ。
 武器で人を殺すのがシナギ人ではない。余所者の私なんかより、この灼熱するシナギ独立戦争を、静かに見てきたラストの方が、それをよく理解しているはずである。
 私はゆっくりと息を吐いた。私は大人じゃない。上手く誘導するなどという配慮はできない。いや、できるかもしれないが、個人的にまどろっこしいやり方は好きではないので、率直に言う。
「それとさ、本当にあんたが言いたいことは別のことだと思うよ」
 ラストが目を細めた。自分でも気付いているらしい。気づかない者も少なくないが、ラストは気付いている。
「人種についてとか、大きな問題じゃなくて、もっと、規模は小さいけど、あんたにとっては重要な問題」
 私もそうだが、人間は何か深刻な悩みを持っている時、それに触れないように、しかし、近い話題を悩みとして持ち上げる。
「ラスト、素直に生きるのは、難しいけど、あんたの理想は、素直に生きる人間だろう」
 ラスト・アエシュマは、ただ剣が嫌いなだけではない。ラストにとって重要なのは、そんなことじゃない。それは、あくまでも、偶々表面に現れた、僅かな感情に過ぎない。
 私も知っている。もう、忘れてしまいそうなぐらい遠い記憶だ。それでも、私は答えの出ない質問を、何度も自分に問うたことがある。
「文献が教えてくれない物をいかにして探し出すか」
 文献から引用してくる。遺跡に書いてあることをそのまま記録する。それだけの歴史学者なんて、実に下らない。遺跡の記録なんて誰でもいできる。そう、何だって「記録」までは、誰にでもできる。
「それが、歴史学者の腕の見せ所だよ」
 ポン、と小さな肩を叩いて、私は立ち上がった。
 ラストという存在ではなく、ラストの作り上げたもので評価してくれる人は、ラストの周囲にはいない。だから、ラストも、私と同じように、自分の力で見つけなければいけない、と思いつつも、私は不安で仕方がなかった。
 どうしようもなさそうだったら、手伝ってあげよう、と私は思った。


 エース・アラストルと、ラストが接触していることは、前々から小耳に挟んでいた。図書館で、歴史研究に勤しんでいるらしい。気に入らなかったが、ラストが楽しいのなら、と俺は思っていた。
 可哀相な奴だと思っていた。エフィス人の血を引いているが、大人しく優しい少年だ。しかし、城にいる他の子どもと遊んでいるところは見たことがなかった。いつも、サラの部屋で本ばかりを読んでいた。
 笑わないし、人と喋っているところもあまり見たことがない。心配だった。そう思っていた時、小さいが上等な剣を手に入れた。
 ラストにやれば喜ぶだろう、と思い、ラストにやったまでは良かった。
「変な入れ知恵をしただろう」
 図書館から出てきたエース・アラストルに言う。サラが、咎めるように名前を呼んでくるが、今は無視だ。
「歴史など、下らない物を……」
 エース・アラストルは、走って移動をしようとしていたらしいが、動きを止めた。
「どこが下らないと思うのですか?」
 エース・アラストルは軍公に対してのような、好戦的反応はとらなかった。ただ、静かに、こちらに目を向けていた。
 珍しい、と思うと同時に、予想外の反応に、俺は僅かに狼狽した。
「歴史は、事実じゃない。物語でもない。歴史は歴史であり、歴史という点で、その二つを凌駕する。古代シナギの人間は、大切にしていた」
 穏やかな声とまではいかないが、その声は低く静かだった。
「歴史の深みを語るとなると、大変だから、隊長に分かるように言いますと、歴史は、私たちが何者であるのかを教えてくれる。そして、ラストも、自分が何者であるかを考えているんです」
 エース・アラストルは、真剣だった。俺は漸く気付いた。エース・アラストルは、いつだって楽しそうにしている。だから、違和感があるのだ。
 俺は何かを言おうと思ったが、不思議な程に思い浮かばなかった。
「あと、ムキになって言わせて頂きますが、皆と少し違う奴が、友達作るのは難しいんですよ」
 言葉のわりに、荒さを含まない声だった。そうかと言って、深い思いがあるわけではなさそうだった。否、あったかもしれないが、それは随分昔に去った物であるかのように思えた。
 軽やかに走り去っていく背中は、何故だか酷く重そうだった。そして、俺は、最後まで何も言えなかった。

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