今でも覚えている。夢にも出て来る。血生臭い草原の高い草を掻き分けて進むと、草陰に、身の丈に合わない大きな刀を抱えて泣いている少年が座り込んでいる。少年は血塗れで、声も無く泣いていて、俺を見つけても、それでも泣き続けていた。
 声は決して出さない。震えている。こんなところには、いてもいけないはずの年の少年。
 シナギでは、たとえ相手が誰であれ、十五歳以下の殺人は禁止されている。だから、この少年が、こんなところにいて良いはずが無かった。
 理由はただ一つ。隣に横たわる男の死体は刀を持っていなかった。
 刀を抱えていたのは少年で、その少年は、今もその刀を携えている。


 私は、酒場のおじさんに事情を話した。ラストの夕食を確保するためである。よく食べてよく寝ることは、心身の健康にとって非常に重要だ。育ち盛りが、夕食を抜くなんて言語道断である。
 おじさんは、すぐにパンとスープを用意してくれた。それを待っている間だった。
「君が、誰かのために必死になることがあるなんてね」
 声だけで誰だか分かってしまうところが、何だか腹が立つ。
「必死ってことはないよ。死なないからやっているんだよ。私がちょっと動くだけで事態が好転するんだ。動かないはずがない」
 助けようかどうしようか、などと考えている暇があれば、すぐに助ける。大体、あの年齢の子どもは、毎食しっかりと食べるべきだ。
 私がそう言っても、何故か軍公の口元には薄らとした笑みが広がっていなかった。それが正常なのだろうが、いつも酷薄な笑みを浮かべている軍公にとっては、珍しいことだ。勿論、誉めてはいない。
 私はそれだけ言うと、食事を盆に載せ、軍公の隣を通ってさっさと酒場を後にした。
 だから、私は知らなかった。
「そういえば、軍公、来ていたぞ」
 軍公とおじさんだけの酒場。主語の抜けた言葉を聞いた軍公が、目を見開き、崩れ落ちるかのように椅子に腰掛けたことを。


 エース・アラストルも、自分が何者であるかを考えたことがあるのかもしれない、と俺は思った。そして、それとは別に、また、思うことがあった。
「友達、いなかったのでしょうか」
 それは、サラが先に言ってくれた。
「そうかもしれないな」
 エフィス人だと言うが、エフィス人には見えない容貌。国に一抹の愛着さえ見せない。ただ、己の生み出した物だけを信じている女剣士。
 もし、何も無かったら、今頃、安全な国の中で、自分の好きなことをして遊んでいるだろう。そう思った時、俺の頭には、あと軍公の後姿が過ぎった。


 エース・アラストルとは、知り合ったばかりだった。勿論、彼女の存在は知っていたし、見たこともあった。シナギ人の持たない灰色の髪を持っているが、危機として刀を振り回す姿は、私が物心がついた頃のシナギ人に重なる。
「ラストが惹かれたのも分かります」
 私は、ゆっくりと息を吐いた。
「私の事情で、あの子を翻弄してしまったのは事実」
「サラ、気にするな」
 シャラムは、気遣いを見せてくれた。
「いえ、違います」
 私は、気にしているわけではない。私には、どうしようもないことで、自分の選択に後悔はない。
「大人はいくらでも自分を正当化する術を持っています。しかし、子どもは違います」
 私は、ラストに誤魔化していたことが多かった。そのせいで、ラストと私の間には、いつの間にか、お互いに触れてはいけないものができてしまった。後悔はない。しかし、己の無力感は、ひしひしと感じる。
「私はあの子に、知らせなかった。黙ってばかりの大人よりも、子どもが信頼するのは当然のことでしょう」
 最低限の事実だけは教えた。でも、何故あの子を産んだのか、という、ラストにとっては大問題であることを、私は話さなかった。話したくなかったし、ラストを傷つけずに、それを言う手段は見つからなかった。
 そう、私の状況に同情してくれる人が、無自覚のうちに、ラストを傷つけていることも知っていた。それでも、触れられなくなってしまっていた。


 私は、ラストと一緒に夕食を食べていた。本当は、貴重な文献の揃った部屋で食事を摂るのは良くないのだが、私もラストも食事で汚すようなことはしないので、それ程気にする必要もなかった。
「お母さんに、酷い奴だ、って言う人がいるんだ」
 少し間を空けて戻ってきたのが良かったらしい。ラストは、そう話し出した。
「お父さんって、どういう人だろう、って思ってしまう……悪いことだと思ってるよ」
 辛いことがあったら、未だに見たことのない父親の影に頼ってしまうのだろう。
「血の繋がりねぇ」
 両親が共に天涯孤独の身である私にとって、血の繋がりは両親を指す。
「逆に、私はそれに固執することができないんだ」
 別に両親が嫌いなわけでは無いし、私は両親を信頼もしているし、尊敬もしているし、死なれたら本当に悲しくなると思う。でも、それは血が繋がっているから、という理由では無い気がする。勿論、それもあるのだが、最も大きな理由は別にある。
 私は、両親とたくさん話した。両親は、私をずっと見てくれてきた。だから、他の人よりも、私のことを理解してくれる。私の思っていることや考えていることを、ちゃんと話さないといけないが、両親は、私の話を聞いてくれる。
 私は子どもじゃない。複雑な考え方とか、感情を持っているわけではないが、少なくとも、しっかりと話さなければ伝わらないぐらいの考え方や感情は持っているつもりだ。だから、両親との見えない繋がりに期待することはない。否、できないのだ。
「しかし、エースさんは強いですね」
 ラストは目を伏せ、薄らと笑みを浮かべた。
「一人なのに、前へ進める」
 私はゆっくりと息を吐いた。
「刀には自信あるけどね。私自身はそれ程強くないよ。ただ、他人に嫌われるのを恐れないだけ」
 人は、いつだって他人に嫌われることを恐れる。それは悪いことではないと思う。しかし、私にそれを考えている余裕はないし、そんなことを気にしていられる程、私の夢は甘くない。だから、行動が大胆なだけで、間違っても、私は強くない。
「エースさんも嫌われることがあるんですか?」
 ラストは目を丸くした。そんなに驚くことか、少年、と私は思った。
「とりあえず、普通に喋れる奴よりは、石投げられたり、殺意持って接される方が多いね。まぁ、当然、立場的なものもあるんだけど」
 さらりと私が言うと、ラストは鳶色の目を細めた。
「僕はそんなことをしませんからね」
 慰めているつもりなのだろうか。励ましているつもりなのだろうか。複雑な人間関係の中で育ったラストは、無意識に、無難な言葉を選ぶことができる。
「無理だと思うよ」
 だから、私はあっさりと返したのだが、それが間違いだった、とすぐに悟ることになる。
「何故ですか?」
 そう聞き返したラストの表情を見て、私は漸く、ラストが本当にそう思っている、ということに気付いた。
「経験と客観的分析の結果」
 そう言うと、ラストは鳶色の瞳をすっと細める。
「悲しいですか?」
 経験、というところに引っ掛かったのだろう。ラストは、目敏い。
「どうして?」
 私は口元に笑みを浮かべる。
「人を嫌ったり憎んだりすることは、悪いことじゃないんだよ。その人を憎める程、拘れるところがあるってことだから。私は、強い意志のある人は好きだよ」
 人の表情ばかり窺っている人間よりも、確固たる芯のある人間の方が、私は好きだ。たとえ、石を投げられたとしても、石を投げるだけ師匠のことを大切に思っていた。そんな人は、たくさんいるわけではない。
 その上、誰かのために、本気で怒ることができる人は、意外と少ないし、その人自身の中で、怒るに値する人間も少ない。喪失感をぶつけるのではなくて、心の底から憎む者がある人。彼らの目の色は、他人とは違う。
 私は剣士として、その強い双眸を愛している。
「納得いきません」
 ラストは、目に掛かっていた赤い髪を払いのけて、不満気に呟く。
「ラストも、サラ相手だから、ああなったと思うけど」
 どうでも良い人間との関係で、取り乱すなどということはしないだろう。
「何がですか?」
 少し毛羽立った声で聞き返したくるのが、普段の大人びた態度と差があって、面白かったので、思わずにやりと笑ってしまう。
「子ども扱いしないで下さいっ」
 ラストも分かっているはずだ。だから、私は何も言わない。私にとって、ラストは庇護するべき人じゃない。ラストと私は対等だ。私もラストと話す中で、自分を反省する。話してあげているわけでもなくて、話してもらっているわけでもない。
 友人がいなくて困ることは何か。私は他者の存在だと答えるだろう。自分が何者か知るために、他者の存在は必要不可欠だ。私は、両親を他者として認識することができたけど、ラストは無理だと思う。  何故、両親では駄目なのか。答えは簡単だ。両親は与えられたものであり、私たちが選んだものではないからだ。私たちが選んだものとの関係。それは、私たちを形成していく。他者の意見に従うのではない。自分の選んだ他者に囲まれた自分の位置を確立していくのが大切なんだ、と私は思う。
 そんなことを考えていたため、私は何も答えなかった。
「ジャック、やめて下さい。わざとでしょう」
 黒い狼のような犬が、ラストにじゃれ付く。そのジャックの姿を見て、私はあることに気付く。
「ラスト、今から、私は外へ出るつもりなんだけど、ついてくる?」
 机の下に手を伸ばし、ジャックから「ある物」を受け取った。ひんやりとした冷たさを持つ、「ある物」。私はそれを服の中に仕舞い込むと、ラストを外に誘った。


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