私は酒場のおじさんと御茶を飲んでいた。
「アルカプタ遠征あるらしいな。お前も行くのか?」
「今朝、軍公殿に言われたばかり」
 今朝も悔しいことに負けたのだ。刀の先を突き付けながら、薄らと笑う軍公の顔は、非常に腹立たしい。そんな軍公は、アルカプタ遠征に行くかどうかを尋ねてきた。アルカプタと言えば、金山。アルカプタがシナギの物になれば、共和国も歯ぎしりしたくなるだろう、と思った私は、ついていく、と言った。
「あの少年はどうする?」
 あの少年、とはラストのことである。相変わらず、図書館にやってくる少年は、前よりは幾分と生き生きとしている。
「連れ行くことになったらしい」
 今後のことが気になる、と軍公は言っていた。シナギ人は、子どもを大切にする。軍公も、あれはあれでラストのことを気に掛けているようだった。
「あれからどうだ?」
 そして、酒場のおじさんも、ラストのことを気に掛けている大人の中の一人だ。
「踊り刀が気に入ったみたい」
「人を斬るのが嫌いな奴はいるが、踊り刀が嫌いな奴は滅多にいないからな」
 伯父さんは何度も頷きながら、そう言った。そもそも、シナギは文化として武芸を持っているから、人を殺せない剣士も存在する。そういう剣士は、踊り刀や木刀を使う。それが、シナギにおいて、卑下されるわけではない。そういうところは、凄いところだと思う。
「お前相手に、嘘吐いたり、意地張ったりしなかったんだな」
 結構意地張っている時もあるけど、私に意地張ったところで、何の得もない。
「本当に良い子なんだよね。賢くて優しい。それが周囲にとっては良い方向に来ている」
 ラストは賢い。
「虐められるのが分かっているから、敢えて近付かないようにしているんだよな。周囲にとっては良くても、本人が良いとは限らない。むしろ、逆の方が多いからな」
 自分が虐められれば、サラが心配し、悲しむことが分かっている。だから、敢えて近付かない。賢くて、優しい子どもだけど、それが本当に痛々しい。周囲の幸せにはなっているけど、彼の幸せにはなっていない。
 良い子だね、といくら褒められても、彼の幸せには繋がらない。
「私は自分が良くて、周囲の方が良くないけどね」
 私がさらりと言うと、おじさんはわざとらしく目を丸くした。
「自覚はあるんだな」
 失礼だなぁ、と思いながら、私は水を口に含む。私だって、自覚ぐらいはある。
「私には、周囲を気にしている余裕はないからさ」
 誰かを見捨てなければ生きることができなくて、皆が皆、自分のことだけを考えている。目の前に助けられる人間がいたとしても、助けたならば、自分が殺されてしまう。戦場から生きたまま帰還する時には、必然的に誰かを見捨てている。そんな異常な空間である戦場。そんな世界を知っているからこそ、人間の自分の生への執着は、よく分かっている。
 だからこそ、私を庇って命を投げた師匠の存在は重い。私には、立ち止まっている暇はない。


価値無き者
命の錘を引き摺って



「セーレ、作戦開始直前で悪いんだが、放ってはおけないことだ」
 僕は、レイヤから報告書を受け取った。報告書には、町の名前など簡単な単語と数字だけが書かれている。僕は読み書きは苦手だけど、数字と簡単な単語の形だけは、何とか覚えている。
「女を誘拐してエフィス人と結婚させて、子どもを殺して、入植者を増やす……シナギは、こういう攻め方には弱いんだよね」
 僕は、報告書をちらりと見ただけで、何について書かれているかが分かった。命運をかけたアルカプタ奪還作戦の直前だが、これは溜息を吐くような余地のある話ではない。
 シナギでは、女も武器を持つ。女を戦に投入することは、民族存続を危うくする。女は子どもを産んでくれるから。でも、そもそもシナギは、武器を握るということが戦に繋がらない。武器を持って戦うことは、シナギの娯楽であって、義務では無い。だから、今のような状況には弱い。シナギ文化は戦争を想定してはいない。
 しかし、それを救ってきた文化もある。それが確固とした養子制。武器を使うことが娯楽なのだから、当然、死ぬこともある。そのような時、親のいない子どもができる。シナギ人は、そんな子どもを引き取り、我が子と変わらぬ愛を注ぐ。だから、シナギには、孤児はできない。子どもは、シナギの宝だ。
 子どもを大切にすることによって、シナギ人は生き延びてきた。だから、その子どもを殺されるのは痛手だ。そして、ただでさえ不足しがちな女性が、強姦に近い状態に追いやられている現実。どうにかしたいと思うけど、僕は無力だ。
「この類は、僕の専門じゃないんだよね。言い訳になるけどさ」
 ぼそぼそと言い訳をすると、レイヤに溜息を吐かれた。軍公というのは、文化や芸術関係の仕事をするのであって、政治は軍公の仕事ではない。しかし、この国に、その仕事をするのは僕しかいないから、頑張ってやっている。だけど、僕はいつも力足らずだから、シナギの民は苦しんでいる。
 言い訳と貸してはいけないことは分かっているけど、言い訳をしないと耐えられない。それだけ、今のシナギの民は危機に瀕している。
「アルカプタは、完全占領されているから、エフィス人は、戦いが本格的に始まる前に追い出さないとね。下手に殺しにかかって、理性を吹っ飛ばしてしまったら、あとが面倒なことになるから」
「その類は、お前の得意分野だろう」
 レイヤはにやりと笑っていた。レイヤがいてくれて本当に良かったと思う。レイヤは色々と助けてくれる。
 僕は軍公として育てられたから、人間の動きや習性については、特に詳しく教えられている。でも、生存本能が大いに発揮された時、人々がどんな行動に出るのかは、分からないし、読むことができない。そして、何より、死ぬかもしれない、と思っている時の人間は強い。それは、シナギ人が一番よく分かっている。
 僕たちの命は、危険に晒されている。黙っていたら殺される。だから、数年前、やっとの思いで結束して、自分たちの命を守ろうとした。そうしたら、この様だ。武器がそのまま戦争や人殺しに繋がらないし、シナギの民は侵略されている時にしか、戦争が許されない。平和な民族だと思うが、それをそのままエフィス国民に伝えては、僕たちが、“世界平和を脅かす野蛮な敵”にならない。
 戦争を指導していて何だけど、本当は戦争なんてしたくない。そもそも、軍公の仕事は、戦いを取り仕切ることではない。僕は、本来の仕事に戻りたいと思っている。
「何を暗い顔している。あぁ、そうだ。お前は昔からしっかり者だったからな、無理しているんだろう」
 今になっても、昔みたいに僕のことを子ども扱いするのはレイヤだけだ。溜息を吐いてみると、レイヤは笑みを深めた。
「しかし、あいつはまだまだだな」
 レイヤは、無理するなよ、と続け、笑顔で部屋から出て行った。

 エース・アラストル。彼女の罪は無知である。それを知ったとすれば、彼女は酷く悔しがるだろう。彼女の心は、エフィスに無いけれど、彼女はエフィスで生まれ育った。彼女には分からないだろう。知らされても無ければ、知ろうとも思っていない。共和国から出ようともせずに、民主主義を盲信している人々よりは、遥かに増しではあるが、その程度である。
 エース・アラストルが、無知という罪を背負っていることは残念だ。彼女がもう少し周囲を見ることができていたならば、もっと面白かったのに、と思う。剣士としては、十分評価に値する人だ。人間としては、どうかと思うけど、世の中に一人ぐらいあんな人がいても、悪くはないと思う。

 エフィス帝国は崩壊し、エフィス共和国となった。しかし、エフィス共和国にも皇帝はいる。今のエフィス人は、己の皇帝を知らない。己の支配者すら知らないのだ。エース・アラストルも、そんなエフィス人の一人だろう。

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