The Night Monarch
Shooting Star


 それは、薄明かりの光漂う夜明けの時だった。毛布に包まっていたフヨウは人の声に、目を開ける。クリスは未だに眠っているようで、起こさないようにゆっくりとひんやりとした地面に足をつけ、ブーツを履き、ばさりとコートを羽織る。
 男の声だ。二人いるらしい。大声を上げているのは一人、そして、その男の声の間に合間が空くことから、静かに何かを話しているもう一人がいるのだろう。フヨウは二本の剣を柄ごと持ち、静かに部屋の外へ出た。
 誰もいない階段を降りる。その時、朝は静寂に包まれた。フヨウは目を細め、早足で階段を降り、重い扉を開けた。そこにいたのは、二人の男。
 一人はヒュー・ランゴクだ。フヨウは確信した。そして、もう一人は、第二勢力である。見た目からして氷の国の密偵か何かだろう、とフヨウは思った。二人はフヨウに気付かないらしく、ただ睨みあっている。しかし、ヒューは、いくらか動揺しているようで、酷く周囲が気になっている様子だった。
 フヨウは周囲を見渡した。誰かがいる。ランシアだろうか、とフヨウは思ったが、この二人の状況に、ランシアが介入しないはずがない。そんな時、昨日見たばかりの少女が、すぐ近くの角から走ってきた。
「ヒュー、どこにいたの。皆心配していたよ」
 ヒューと反対側から走ってくるカリナの声には、全く危機感が無い。
「逃げろ、カリナ。近くに、人間じゃない奴がいる。氷の国の密偵もいる」
 鋭いヒューの声が響く。冷たい空気を震わせるような、鋭利な声だ。
 フヨウはびくりと体を震わせた。ヒューの言葉は、フヨウを動揺させるに十分だった。一瞬、自分の身の危険を感じたフヨウは、普段のようには頭が回らなかった。
 ヒューの言葉は、カリナの危険に繋がった。氷の国の男はカリナに向かって走り出す。フヨウは走り出そうとした。しかし、それは僅か数歩に留まった。
 男はカリナのすぐ傍まで迫っていた。しかし、カリナは走り出せない。ヒューも男に追いつかない。しかし、男は止まった。男の頭上に棍が舞った。突然現れた棍がふわりと空中に浮いたかと思うと、洗練された動きで舞い降りる。激しい打撃音が響いた。棍を操っていた者は、軽々と着地する。
 棍を握るのは、漆黒の髪の青年。一撃で仕留めた獲物を見て、ゆっくりと溜息を吐いている。腰を抜かしているカリナの傍に、ヒューが駆け寄る。
 漆黒の棍を、強い脚力と空を利用して扱う。このような戦い方をする者も、できる者も少ない。フヨウの知っている中では、ただ一人だ。フヨウは呆然と、その青年を見た。
「私は、龍族の次期族長、ロゼと申します。ランゴク族のヒュー殿と御見受けしますが、この度は、突然の訪問、ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。後ほど、お詫びに参ります」
 龍族。魔界、遥かなる大地に、古より住まう民である。人間の姿と龍の姿を持つが、人間にはほとんど干渉しない。誇り高く、強い力を持つ、生命力の象徴。それが龍である。
 男の顔はフヨウの方からは見えない。しかし、フヨウは呆然とその黒を見ていた。顔を見る必要はない。その物静かな声だけが、酷く静かなフヨウの中で、鐘のように響く。
「お前は、こいつらの仲間か。氷の国は、お前らのような奴らを仲間にしたのか」
 ヒューは青年を睨みつける。しかし、青年は全く動じない。相変わらずの穏やかさと、しっかりとした芯を持ち合わせた声で対応する。
「いえ、氷の国の者とは、全く関係はございません。私どもは遥かなる大地の民。領主国の方々の争いに、関与はしません」
 ヒューは黙り込んだ。カリナは衝撃が大きかったのか、ヒューの隣に座り込んでいる。青年はそんなカリナを気遣うような素振りを見せると、ゆっくりと振り返った。
「フヨウ、久しぶり」
 優しく微笑む男。短い漆黒の髪、深い青紫の瞳、整った顔立ち。それは、フヨウには予想外だった。誰かが来たということは知っていた。しかし、この男が出向くなど、フヨウは考えもしなかった。
「ロゼ様、何故このようなところに」
 フヨウは、ゆっくりと息を吐き出すようにして、丁寧に尋ねる。すると、青年、ロゼは優しく微笑んだ。
「私は勿論、ハロン様も、フヨウを心配していたんだよ。早く帰ろう」
 フヨウに断る権利は無い。その一点の濁りも無い笑顔に、行き場をなくしたフヨウの目は、サクと合う。いつの間に起きていたのだろうか、などということを考える余裕は、今のフヨウには無い。しかし、サクは興味深げにフヨウを見つつ、僅かに笑顔を浮かべている。普段は揺れるだけの瞳に、好奇の光があった。
「フヨウ、お友達かな」
「旅の仲間です」
 サクの方をちらりと見て、そう尋ねたロゼに、フヨウは即答した。すると、ロゼの顔が明るくなった。
「初めまして。私はロゼ。龍族の次期族長です。フヨウがお世話になっています」
 サクに向き直り、ロゼは嬉しそうにそう言った。フヨウは何も言わず、サクを見た。希望は薄いが、何とかして、サクに自分を連れ出して欲しかった。
「サクです。フヨウさんと、二人の仲間と共に、旅をさせて頂いています」
 サクは穏やかに笑った。例の作り笑顔である。瞳に好奇がありありと浮かんでいるため、その笑顔の説得力は無い。しかし、ロゼの興味は別のところに移っていた。
「フヨウ、仲間が三人も出来たのかい」
 青紫の目を見開き、ロゼはフヨウに笑いかける。フヨウは、短く、ええ、と答えた。すると、ロゼは、会ってくれないかな、と微笑む。フヨウは頷く以外のことができなかった。
 朝の日差しは強い。その所為で、宿の影は異様に濃かった。


 ヒューは、カリナを連れて消えた。カリナは、一人で帰れる状態ではなかった。
 クリスとジェイクは、自ずと外へ出てきた。クリスは、フヨウが夜の散歩に出かけていたと思ったのか、外へ出てくるや否や、強くフヨウの名を呼んだ。しかし、様子が違うことにすぐに気付いたようだった。しかし、ジェイクは眠そうな顔のまま、クリスの後について来るだけだ。
 ロゼが軽く自己紹介をすると、クリスは、フヨウとロゼを交互に見てから言った。
「ねぇ、ロゼさんってフヨウの婚約者なの」
 ロゼが声を出して笑い始めた。フヨウは斜め下を見る。フヨウは、乾いた地面を、踏みつけたくなった。
 クリスは、間違っても空気の読めない人間ではない。しかし、今回は違った。フヨウはざわめく心の中で、何故、ここで言ってしまうのか、と思う。咎めるように、ロゼ様、と笑う青年の名を呼んでも、青年は、ただ笑い続けるだけだ。
 しかし、クリスは全くそれに気付いていないらしい。鋭いな、と呑気に言っているジェイクなど、以ての外だ。
「面白いこと言うね。私とフヨウは兄妹だよ」
 笑うのをやめたロゼは、そう言った。フヨウはびくりと体を震わせ、サクを見た。サクの口元は緩んでいる、否、にやりと歪んでいた。
「じゃあ、あんたも龍なの」
「そういうことになるね」
 そう尋ねるクリスに、フヨウは曖昧に答える。
「じゃあ、龍に変身したら、空も飛べるのか」
「もう、久しく飛んでいないから無理だろう」
 ゆっくりと溜息を吐くと、ゆらりと何かが動く。力んでいたのだろうか。足の力がふっと抜けた。フヨウは、近くのベンチに倒れるように座る。さり気なく、サクが隣に腰掛けるが、フヨウは何も言わない。
「私は、ランゴク族の方々に挨拶をしてくるから、ここで待っていてね」
 フヨウの変化に気付いているのか、おそらく気付いていないロゼは、フヨウに微笑んだ。
「私たちは、実家に戻りますが、御三方もどうですか」
 穏やかな微笑と共に残された言葉は、既に限界手前のフヨウを、揺れる何かに引き摺り込んだ。


 空は限りなく青い。フヨウはもう何度目かになる、大きな溜息を吐いた。サクは黙っている。
 クリスは何かを悟ったのか、何も尋ねてはこない。しかし、ジェイクは違う。いつもジェイクの制止役を務めているクリスは、朝食がまだなこともあり、ぐったりとベンチに座っている。サクは、自分が考え無しな言動を起こすのは嫌な分、ジェイクが余計なことを聞くことを心の中で祈っているらしい。サク・セイハイは、感情が表に出やすい方ではない。しかし、隠す気の無い感情は当然表に出る。サクはにやりと笑みを浮かべ、僅かに顔を下へ傾けながら、横目でフヨウを見ていた。
「何で兄さんなのに、様付けで呼ぶんだ」
「ロゼ様はロゼ様と呼ばれるべき御方だからだよ」
 ゆっくりと時間をかけてフヨウは答える。そこで、黙っていたサクが口を開いた。
「片親が違う兄なんだろう」
 さらりとサクは言った。少し間を空けてから、フヨウは頷く。
 セイハイ族の本家の長男。その育ち故に、既に想像をめぐられているのだろう。フヨウは、サクの聡明で鋭いところは好きだが、それが自分に向けられるとなると、その気持ちは薄くなる。
「あの人のあの態度を見る限りでは、父親が違うのかな。現龍族長が男ならばね」
 龍族長の血は引かないが、片親は同じ兄妹。仲が良くても、辻褄は合う。フヨウは、賢いのも困り者だな、と思った。
「どうだろうね」
 フヨウには微笑む心の余裕は無かったが、可能な限りゆっくりとそう言った。


 クリスとジェイクは朝食を食べに行った。フヨウは、サクと二人で、ベンチに腰掛けていた。澄み渡る青空。フヨウは、ランシアの件といい、何故自分が、黒の山脈を越えてまでしたのに関わらず、こんな目に遭うのかが分からなかった。
「サク殿、クリスとジェイクを連れて、関わらないで頂きたいんだが」
 フヨウはそう言ってみるが、サクの青い瞳が丸みを増しただけで、何も無い。暫くして、サクは、あんたは、と尋ねる。
「私もロゼ様が目を離した隙に逃げる」
 逃げる。フヨウにとっては、無意識の言葉だった。サクの顔色を見て、フヨウはすぐに自分の失言に気付く。こういうことを決して見逃さないのが、サク・セイハイだ。確かめる必要は欠片もないのだが、フヨウは隣に座る青年がサク・セイハイだと再確認してしまった。
「危険と言うわけではないだろう」
 サクはにやりと笑った。危険なことは無いのだ。フヨウは、必死に危険な理由を考えたが、何分嘘は吐かない性格だ。咄嗟に考えつくはずが無い。
「嫌だね。僕の個人的領域に土足で入り込んでおいて、それはない。ここで全てを話す気が無いのなら、じっくり詮索させて貰うよ」
 サクの口元がぐにゃりと歪んだ。
 フヨウは泣きたくなった。そう、サク・セイハイはフヨウのことが嫌いだ。率先してフヨウの嫌がることをやるような性格ではないが、機会は逃さない。


 宿の近くの食堂の奥の方の席に、クリスとジェイクは座っていた。
「フヨウ、笑わないわね」
 パンを頬張りながら、そうか、とジェイクはもごもごと尋ねる。
「あんた、気付かなかったの」
 信じられない、とクリスは続け、ココアを飲んだ。
「でも、あの人、フヨウにすごく優しいじゃないか」
「私も分からないのよ。あの人はいつだって、フヨウを見る目が優しいから」
 裏があるようには思えない、とクリスは思っていた。ロゼと言う青年は、鈍そうなところはあるようだったが、フヨウを見る目にはいつだって愛がある。
「家に連れ戻されるのが嫌なのかな」
 ジェイクは、パンを食べ終わり、コーヒーを飲んだ後、そう言った。クリスは、珍しく、ジェイクが良いところをついていることに驚いた。いつもなら、一から全てを話さなければいけないのに、この件は三ぐらいからでも良さそうだ、とクリスは思った。
「ロゼさんは、もしフヨウが嫌だって言ったら諦めそうだけど、私もそれは思ったわ」
 それならば、フヨウが早くから一人旅をしていることの動機付けができる。クリスが真っ先に考え、今、一番可能性が高いと思っていることである。
「ロゼ様は偉い人だから言えないのか」
 龍族の次の長。サクの言っていることが正しいとすれば、それには十分な根拠がある。フヨウは長の血を引いていない。遥かなる大地は、領主国ほどではないが、魔界の血を大切にする、という考え方をしっかりと持っている。
「それは、少し違うと思うわ。理由の一つであるとは思うけど」
 フヨウが、身分だけで頭を下げる人間ではないだろう、とクリスは思っている。
「でも、もしロゼさんの所為でフヨウが家に戻るのが嫌だったとしたら、不思議なほどに辻褄が合うの」
 クリスとジェイクは、黙ってサラダをつついた。よくよく考えてみれば、女の子が十歳の時に一人旅を始めたというのは不審である。それが、たとえ魔界人であったとしても。
 その上、あの兄だ。フヨウが一人旅に出るなどと言ったら、何が何でも止めるだろう。クリスは、そう考えていた。
 クリスもジェイクも黙り込んだ。サラダをつつく。クリスは僅かにずれたランチョンマットをそのままに、ただ、ぼーっと正面に掛かる薔薇の絵を見た。
「それで、どうするんだ」
 漸く口を開いたジェイクに、クリスは言う。
「ある程度は、サクに任せましょう」
 クリスはさらりと言った。引っ掛かる物はあるが、どうしようもない。フヨウの抱えている物は、それだけ入り組んでいた。
「サクに任せるのか。確かに、不親切なわけではないが、何と言うか」
 ジェイクは何かに気付いていた。しかし、それを整理し、表現する言葉が見つれることができるほど、ジェイクに力はない。クリスは、すぐに助け船を出した。
「サクはね、私たちも、エルフも、カリナさんも、皆一緒くたにしているの。つまりね、私たちを人間としか見ていない」
 サクは人を助ける。サクは優しい。しかし、サクは、助けるべき人を助けるべき人としか見ていない。クリスはそれに気付いていた。サクは、人を信用しない。当たり前だ。人間誰しも、全ての人間を信用すること無い。サクにとって、クリスやジェイクを信用することは、全ての人を信用することと同じなのだ。
「そう言われると、悪いことではない気がするが」
 ジェイクは、目を細めた。
 クリスは、そこまで考えが至っている自分と、ジェイクの歴然とした差を感じた。
「分かってないわね。だから、彼にとっては、私たちも、エルフも、カリナさんも同じなのよ。きっと、好きな人も嫌いな人も、彼には無いと思うわ。だけど、フヨウは違うのよ。好きなのか嫌いなのかは分からないけど、おそらく、サクにはそのどちらかの感情があると思うわ」
 クリスがそう言いきった時、ジェイクは、何かを考えているようだった。クリスは、ジェイクが本当に自分の言ったことが分かっているのか、不安になった。過激な発言に対する勘違いは、避けなければいけない。
 ジェイクは、少し間を空けてからゆっくりと口を開く。
「つまり、サクの世界では、フヨウと、その他大勢ということになっているんだな」
 クリスは安心した。ジェイクはクリスの言葉を、理解したようだった。クリスは笑みを浮かべて、話を続ける。
「そうね。そういう感じだと思うわ。普通、異性にこういう感情抱く時は、好きってことが多いんだけど、私が見てる限り、どうしてもそうは思えないのよね。二人は確かに打ち解けてきた感じはするけど、打ち解けると好きになるってまた別じゃない」
 今のサクとフヨウに、恋愛などの余裕があるかと言ったら、答えは否だ。二人の関係は、相手が男だろうと女だろうと関係ないだろう。もっと深いところに二人の関係はある、とクリスは思っていた。それは決して悪いことではない。
「それだとしたら、かなり危険な賭けだと思う」
 ジェイクは言った。何時の間にか、皿には食べ物が無い。
 フヨウとサクの、独特な関係は悪くない。しかし、今回は別だ。サクが、フヨウを嫌っている可能性を孕んでいる分、ジェイクの危機感は正しいと言える。特に、サクの目に、何の優しさも映らないところからすると、サクがフヨウを嫌っている可能性は非常に高い。
「それでもね、サクは、私とジェイクの数倍、フヨウについて知ってるはずよ。私たちよりもずっと的確に動ける。的確にフヨウの嫌なところもつける、とも言えるんだけどね」
 そうだよな、とジェイクが項垂れる。サクは賢い。それ故に諸刃の剣だ。
 二人の魔界人。クリスとジェイクは、二人について、何も知らない。抱えている物は大きい。それだけしか分からない。二人は、重い何かを持っているのに関わらず、酷く安定しているのだ。
 クリスは大きな窓から見える木を見た。数日前に強風が吹いたのだろうか。穏やかに流れる僅かな風で、ゆらりゆらりと揺れる細い木の枝は折れてはいない。しかし、すぐ近くにある太い木の枝は、風では揺れないものの、めしりと折れ、皮一枚でぶら下がっていた。

Copyright(c) 2010 UNNATURAL WORLDS all rights reserved.