The Night Monarch
Deep Tear


 サクは、フヨウの額にゆっくりと指をのせた。そして、自身も目を瞑り、にやりと口元を歪めた。夢見の魔法。使ったのは初めてだ。元より人間に興味の無いサクである。態々人の夢を見ようなどとは、思ったことすらなかった。

 そこは、龍族の屋敷だった。小さな庭園の大きな石の物陰に、小さな少女が座っている。緋色の髪に草原色の瞳。幼き日のフヨウだろう。
 すぐ近くの廊下には、二人の女性が喋っている。
「あら、フヨウ様は、あんなところで何をなさっているのかしら」
「ロゼ様とかくれんぼじゃないかしら。ロゼ様は、フヨウ様を可愛がっておいでだから」
 フヨウは、じーっと石の陰に隠れていた。周囲が気になるようで、時折首を動かす。
「正室と側室の御子ならば、いがみ合うのが普通なのに」
 サクは、にやりと口元を歪めた。サクの予想は当たった。フヨウは、長の血を引いている。
「でも、可愛らしいじゃない。きっと、龍族も安泰よ」
 女性たちは笑い合い、一生懸命隠れているフヨウを見て、優しい目を細めた。
 そこで、いきなり場面は変わる。一気に周囲は黄緑色になる。草原だ。草原で、二人の子どもが立っている。
 フヨウと、もう片方はロゼだろう。ロゼの棍は、フヨウの隣に刺さっている。流れる風の音の中、ロゼとハロンは微笑み、フヨウに話し掛けている。
「フヨウ、お前は凄い。よく頑張っているな」
「凄いね、フヨウ。でも、次は負けないから」
 二人は、とても純粋に笑っていた。一点の混ざり気も無かった。しかし、フヨウは心此処にあらず、といった顔をしている。そんな中、子どもを取り囲むようにしていた大人たちが、ぞろぞろと歩き出した。
 静かだった草原に、ざわめきが湧き起こる。流れ続ける風の音とは違うざわめきだった。
「ロゼ様が、フヨウ様に負けるなんて」
「フヨウ様が、次期龍族長におなりになるかしら」
「まさか。フヨウ様は、側室の娘よ」
 それは、周囲を囲っていた大人たちの言葉だった。帰ろう、とロゼが手を差し伸べる。フヨウはその手を取ったが、やはり、気になるのは広がる草原のようだった。


 廊下をフヨウが歩いている。隣には、ロゼではなく、フヨウにそっくりの女性。おそらく、フヨウの母親であろう。
「フヨウ様の目の色を見たか」
「ロゼ様よりも、ずっと鮮やかな青紫だ」
「ロゼ様が御可哀想だ。あんなに素晴らしい御方なのに」
 それは、低いような高いような声だった。二人を見る人々の目は、冷たい。聞こえ様の悪口に、フヨウは助けを求めるように、母親の顔を見る。
「フヨウ、耐えなさい」
 囁かれた言葉に、フヨウはコクリと頷いた。しかし、自然と足は早足になっている。しっかりと手を繋がれているため、走って部屋まで逃げることは、できないのだろう。途中で諦めたのか、ゆっくりとフヨウは歩いていた。


 フヨウは、小さな小部屋にいた。座って、ぼんやりと何かを考えいている。そこで、いきなり扉が開いた。ロゼである。
「フヨウ、ハロン様が、美味しいお茶を手に入れたっておっしゃっていたよ。早く行こうよ」
 その言葉に、ええ、とフヨウは薄らと笑みを浮かべて言った。無理して笑ったような、そんな笑顔だった。ロゼは目を輝かせて、フヨウの手を取って走り出した。
 二人が向かった先は、応接間のような一室だった。先程まで客がいたのだろう。未だ片付けられいない器が幾つかあった。その真ん中に、ハロンが座っている。
 ハロンはにやりと笑って、自分の隣に置いてあったお茶を出す。
「客人から頂いたんだ。美味しいお茶らしい」
 ハロンは、二つの器を、二人の前に置く。鈍い草原色のお茶には、湯気が立っている。ロゼは、礼を一度言って、すぐに飲み始めた。フヨウは少し遅れて、丁寧に礼を言い、少しだけ口をつけた。
「フヨウ、美味しいか」
 ハロンが、フヨウに尋ねる。フヨウは、はい、と返事をして、再び礼を言った。
「明日は三人で草原に遊びに行こう。そうだ、ユンリも呼ぼう」
 ハロンは、にやりと笑う。ロゼは、草原ですか、と目を輝かせる。フヨウだけが、僅かに目を泳がせ、行き場がなさそうに顔を下へ向ける。
「フヨウ、ユンリ様にも、声を御掛けして来てよ」
 ロゼが笑顔でフヨウに言った。フヨウは、はい、と小さな声で返事をした。しかし、笑顔は見せなかった。


 明りだけが灯った夜の小部屋に、ユンリとフヨウがいた。
「母上、私は悪く言われて当然の者です。最近、悪く言われることは我慢できます」
 フヨウの静かな言葉に、ユンリは、そう、とだけ言った。フヨウは続ける。
「しかし、母上。私は分からないのです。兄上のために、私は何をすべきなのでしょうか。強くなるべきなのでしょうか。弱くなるべきなのでしょうか。私は、兄上をお守りするために、剣も魔法も、できる限りのことはやってきたつもりです」
 フヨウは、目元に涙を溜めていた。ユンリとフヨウの顔を見ていなかったし、フヨウもユンリの顔を見ていなかった。
「母上、私は弱くても兄上の足を引っ張ります。しかし、強くても兄上を苦しめるのです。それが苦しくて仕方がないのです」
 フヨウは、声を大きくすることは無い。ただ、その言葉には、半端ではない気持ちが入っていることは、容易に分かるものだった。
「愚かな私は、ハロン様や兄上に可愛がっていただけるような者ではございません。ですが、尽くすべきは私なのに関わらず御二人は、とても御優しくて……」
 ユンリは、フヨウの頭を優しく撫ぜていた。しかし、ユンリは何も言わなかった。
 サクは、ゆっくりと息を吐いた。その後のことは容易に想像できた。おそらく、フヨウは魔法を使わなくなったのだろう。そして、それだけでは満足できず、母親であるユンリに手引きして貰って、屋敷から飛び出したのだろう。そして、黒の山脈を越えたのだろう。


 魔法が切れた。夢が終わったのだ。サクは元の部屋に戻っていた。それまで微動たりともしなかったフヨウが、僅かに動く。弱くて愚かな少女が。
 フヨウが目を開けた。その目は、草原色ではなく、深い青紫色だった。その色は、サクが見てきた者の中で、誰よりも濃い。青と紫の瞳の者は、魔法に長ける。フヨウが、ロゼ以上の魔法の力を持っている証拠だ。
「サク殿か。悪いね、眠っていて、気付かなかったよ」
 フヨウは青紫の瞳のまま、穏やかに笑った。しかし、いつもよりも息遣いが荒いためなのか、その笑みを浮かべるのが辛いのか、酷く苦しそうだった。
「できれば……もう少し……」
 ゆっくりとそう言いながら、フヨウは毛布を被ろうとした。サクは、毛布を強く掴み、それを阻止する。すると、フヨウは諦めたように、大きく息を吐いた。毛布がきらりと光る。
「見苦しいところを御見せして、すまないね」
 フヨウがもう限界を超えていることは、サクにも分かった。一応笑みは浮かべているが、それは非常に弱弱しい。サクはフヨウを慰めようなんて気はさらさら無かった。そんな義理は無い。
「構わないよ。ところで、夢、全部見た」
 フヨウが泣くなんて、相当堪えているんだろうな、と思いながらそう言うと、フヨウは苦笑いした。
「私に夢見の魔法を使ったのかね」
「素晴らしい夢だったよ」
 にやりと笑うと、フヨウは再び大きく息を吐いた。
「言葉だけではなく、性格まで歪んでいたとはね」
 困ったものだね、とフヨウは笑う。相変わらずだが、冗談に付き合うことぐらいはできるらしい。
「生憎、元々のこういう性格だから」
「開き直るということが、如何に性質が悪いのかが良く分かったよ」
 フヨウはあからさまに溜息を吐き、黙り込んだ。サクは、青紫の瞳を見て、言い損ねたことを思い出す。
「魔法で体が反応しているみたいだよ。そのまま外に出ないようにね」
 魔力で魔法を使うときの特性が発現したのだろう。フヨウは、それだけの言葉で気付いたらしく、不快そうに目を細めた。
「誰の所為か」
 フヨウは、普段、絶対にそのような表情をしないため、珍しいな、と思い、サクはにやりと笑う。
「僕だろうね」
 それと、と続け、笑みを深める。
「ここまで入って来てしまったんだ。責任は取ってね」
「貴殿が勝手に入ってきたのだろう」
 フヨウが涙目でキッと睨みつけるので、爽やかに笑って、気の所為だよ、と言う。フヨウは、溜息を吐き、その顔を窓に向けた。
「あんたは愚かだよ」
 諭すようにサクが言うと、フヨウは再び目を伏せた。青紫の瞳が、草原色へと戻っていく。
「分かってる。ただ、苦しかったんだ。だから、逃げた」
 フヨウがゆっくりと息を吐くのと同時に、つーっと頬が光る。意地を張る気はないらしいが、我慢する気はあるらしい。
「父親にも兄にも愛され、一体あんたは何を望んだのかな」
 フヨウは黙り込んだままだった。
「あんたは、父親と兄を裏切ったんだ」
 サクはそう言い放った。
 サクは本当の両親を知らない。気付いた時には、両親はいなかった。両親の体を乗っ取った者を、両親と呼ばなければいけない。無条件の愛など、向けられたことも無い。サクは、今さらそれを望む気にはなれなかったが、自分の能力や性格ではなく、ただ、純粋に愛されてきたフヨウの行為を、不快に思った。
 フヨウは、さらに崩れるほど、丈夫ではなかった。既に、崩れるだけ崩れている。
「何故、こんなことで苦しんで、何故、愛してくれた人を裏切ってしまったのか、疑問に思う」
 フヨウは自嘲した。草原色の瞳が細められる。
「私は逃げ続けた。私には、立ち向かう勇気が無かったわけではない。立ち向かう力が無かった」
 もし、足りないものが勇気だったら、どんなに良かったことか、とフヨウは思っているのだろう。サクはそう思った。確かに、足りないものが、勇気だったら、誰かの助けで、乗り越えることができただろう。
「自分の力から逃げ、兄上と父上から逃げてしまった」
 フヨウは言葉を切った。
「私は愚かだよ」
 フヨウは再び自嘲する。
 サクは溜息を吐いた。こういう場合は、一番厄介なのだ。それは、勿論サクにとってではなく、フヨウにとってのことだが。
 原因は分かっている。しかし、解決はできない。そういうものは、どうしようもないのだ。それは、フヨウにとって、酷くもどかしいことだろう、とサクは思った。しかし、それは、サクの知ったことではない。
「サク殿、貴殿はよく揺れる。何気ない一言に迷いが出る」
 フヨウは微笑んだ。
「しかし、貴殿は決して折れないね」
 フヨウの草原色の瞳が、サクの顔を映す。
「サク殿、貴殿は強いよ」
 フヨウは弱弱しく笑った。窓から差す光は、いつの間にか、鮮やかな赤色に変わっていた。

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