The Night Monarch
Deep Tear


 フヨウは漸く落ち着いてきたのか、ゆっくりと数回息を吐いた。薄暗い部屋の所為だろうか。それとも、夜が来た所為だろうか。落ち着いた様子で、毛布の上に座り、普段は流したままである緋色の髪を、ゆったりと結っている。
「それにしても、まさか泣かれるとは思っていなかった」
 サクが、にやりと悪戯っぽく笑って、そう言うと、フヨウは不快そうに目を細めた。
「泣かされた覚えもないが。私は勝手に泣いた」
 フヨウは決して表情豊かな方ではないため、滅多に見ることのできない不満そうな顔。サクはにやりと笑った。
「それは失礼」
 軽く謝ると、フヨウは大袈裟にゆっくりと息を吐く。
「つまり、私は人なんだよ」
 穏やかな低めの声が響く。草原色の瞳は、夜を映し、サクを映す。
「龍だろう」
 サクは、フヨウが言いたいことをすぐに理解したが、そのままでは面白くないので、的を外したことを言う。フヨウは、それを見破っているのかどうなのか、無表情のまま、律儀に答えた。
「人間ではないが、私は人だよ。貴殿のことだ。私のことを化け物か何かだと思っていただろう」
 サクは笑う。確かに正しい。サクは、フヨウが魔界の一民族の娘などとは、思ってもいなかった。魔界民族一覧どころか、精霊やゴーストなども記載されている特殊生物一覧にも、載っていないような、そんなものだと思っていた。
「龍は化け物ではないのかな」
 冗談だけで、そう尋ねてみると、フヨウは笑った。
「龍も人だよ。取るに足りないことで苦しみ、誤った判断をする」
 そう言ってから、フヨウは何かを思い出したかのように言った。
「そういえば、カナン嬢に、神様のようだと言われたんだ」
 口元に浮かべられているのは、滅多に見せない悪戯っぽい笑みだった。
「こんな神がいたら世も末だよ」
 確かに滑稽だ、とサクは思った。微妙な心理の中で悶え苦しむなんていう愚かなことは、人しかできない。
 当然のことながら、お互い神の存在など信じていないことは、百も承知である。
「しかし、結果論から言うと、私は正しくはなかっただけで、決して間違ってはいなかった」
 そう言ってから、フヨウは一度、言葉を切った。
「私は夜の君主となり、貴殿と出会い、クリス嬢とジェイク殿と旅を始めた。それは、ハロン様とロゼ様の期待に応え続けていれば、決して叶わなかっただろう」
 楽しいんだよ、毎日が、とフヨウは笑った。そして、草原色の双眸を、窓の外の夜に向ける。
「見たまえ。美しいだろう。私は、この空が嫌いだった」
 澄み渡る夜空には、星が浮かび、漆黒はフヨウを溶かし込むように流れている。草原色は、映えるわけではなく、同調するように深くなる。
「夜が大嫌いだったんだよ。夜は、見えないものが見えてくる。そうだろう」
 全てを見透かすような草原色を、フヨウはサクに向けた。サクは、目を細める。
「安らかな心と、冷静な思考。それが交じり合った刻こそ、夜」
 ああ、だから自分はフヨウが嫌いなんだ、とサクは納得した。フヨウは決して騒がない。それ故、嫌な感じがするのだ。
「私は籠の中の鳥だったからこそ、夜が嫌いだった。貴殿は違うね。鎖に締め付けられている」
 フヨウがさらりと言った言葉に、サクは反応した。
「闇を統べる姫君。そうだろう」
 フヨウが浮かべているのは、口元を僅かに歪めた笑みだ。闇を統べる姫君。強き者の世界、妖界の姫だ。脳裏に浮かぶのは、紅の長い髪。フヨウのようにくすみの無い鮮やかな色だった。そして、冷たい光を持つ黒い双眸。
 決して忘れることの無いだろう人。フヨウのような穏やかな笑顔を、決して浮かべない。ただ、その笑顔は、愚かな人間を笑うためだけにあるのだから。
「素晴らしいことだろう。四界で最も、強く、美しく、高貴でいらっしゃる姫君に、己の心を縛られるのは」
 大袈裟な評価とは思えない。しかし、サクの観点は、そのようなところでは無かった。
「根に持っているだろう」
 今まで知っていて言わなかったのだから、それには、何らかの良心が働いていたのだろう。今、それを言ったということは、明らかに仕返しだ。
「純粋に言っているのが分からないのかね」
 嘘だ、とサクは思ったが、これ以上何を言っても無駄だと悟った。フヨウは、仕返しをできて満足そうだ。
「彼女は、縛っている気も無いだろう」
 息を吐くようにとそう言うと、それはどうかな、とフヨウはにやりと笑った。色々とフヨウの思うことはあるらしいが、サクは絶対に、ありえないと思った。姫が自分のことを忘れているはずは無いが、気に掛けているはずも無い。姫は、姫しかいない世界を生きているだろう。
 フヨウは漸く満足したのか、穏やかに笑った。
「精霊たちも呼んでいる。折角籠から出たんだ。空を知ってしまった鳥が、籠の中で悠悠自適には過ごせない」
 窓の外には、夜の世界が広がっている。サクの頭の中では、籠に入っているのは、小鳥ではなくフクロウだ。籠の中で、フクロウが生きていけるはずが無い。
「私が、自由と責任を選び取るか、庇護と安全を選び取るか」
 フヨウは薄らと笑う。闇の草原色が、ふわりと動く。宿る光は、数千年の一族の光。
「答えは初めから出ている」
 そう言って、フヨウは手を伸ばした。そこには、二本の剣が横たわっていた。
「サク殿、ハロン様とロゼ様のところへ行くぞ」
 剣を持つということは、もう、ここには戻ってこないということ。立ち上がり、空色のコートを、ばさりと羽織るフヨウの姿を見て、サクは悪戯っぽく笑った。
「くれぐれも泣かないようにね」
 フヨウはサクの方へ顔を向ける。
「Nonsense 貴殿こそ、先程のことを根に持っているのだろう」
 フヨウは笑う。当然のことだ。サクも、やられっ放しは性に合わない。
「母上のことも、言わなくてはいけない」
 フヨウは、思い出したかのように言った。
「身分違いの結婚だ。私と比べ物にならないほど、苦しんでいる」
 身分違いの結婚など、相手に捨てられた瞬間、行き場を失う。皆の反感を買うような身分差であるなら、尚更だ。誹謗中傷に耐え、常に捨てられないかという不安を抱えている。
「せめて、安らかな老後を過ごして欲しいという、娘の純粋な願いだよ」
 フヨウは溜息を吐いた。
「顔が白々しいよ」
 理由としては、勿論それも入っているだろうが、どちらかというと、何か一言物申したいです、という気持ちが表面に出すぎているため、それはあまりにも説得力が無かった。因みに、それが一言で終わる保障はどこにも無い。
「まさか、貴殿の気のせいだ。落ち着きたまえ」
 落ち着くべきは、フヨウの方だ、とサクは思ったが、面倒だったので言うのをやめた。今のフヨウは、明らかにおかしい。しかし、サクは考え直した。今までのフヨウが、フヨウではなかったのかもしれない、と。
「それで、もしハロン殿を説得できなかったら」
 サクはにやりと笑って、そう尋ねる。期待している答えは一つだ。
「実力行使だ」
 フヨウは期待を裏切らなかった。腰に巻きつけた二本の剣がぶつかり、特有の硬い音が鳴る。
「魔法は使わないのかな」
「Nonsense 私は夜の君主だ。使うはずが無いだろう」
 フヨウの草原色が深くなる。サクはあからさまに溜息を吐いた。
「僕に頼る気満々だね」
 剣だけで逃げられるはずが無い。剣という手段は、逃亡向きではないのだ。となると、当然、サクへの依存は大きくなる。
「当たり前だ。まさか、貴殿は、ここに残るつもりかね」
 意地の悪い笑みを浮かべ、フヨウはそう尋ねてくる。
「Nonsense 僕は籠になど、入ったことがないからね」
 今さら、他人の籠に入ることなど御免だ。大体、理由が無い。本当に馬鹿馬鹿しい。
「クリス嬢とジェイク殿も回収せねば」
 空色のコートを揺らし、フヨウが言った。
「素直について来てくれるかな」
 悪戯っぽく笑ってフヨウを見ると、フヨウは口元に僅かな笑みを浮かべながら、ゆっくりと息を吐いた。
「クリス嬢に期待しよう」
 おそらく、ジェイク殿は戸惑うばかりだから、とフヨウは続けた。
 扉が勢いよく開き、魔法が飛び散ったのは、僅か数秒後のことだった。

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