The Night Monarch
Dragon of the Grassy Plain


 サク・セイハイは、扉をぶち破るようなことをしなかった。扉の前に立ち、扉に手を当てる。フヨウは後ろで剣に手をかけていた。全体的に短く小回りが効き、広い刃を持つククリの柄をしっかりと掴む。
 サクが静かに魔法を解き、扉を開けた時、フヨウはククリを抜いた。
 銀色がサクを掠った。フヨウは、目を細める。当然のことながら、サクを狙った物ではない。金属音が響き渡る。
 フヨウのククリによって弾かれた矢は、廊下に叩き付けられた。温かみのある銀色を見て、フヨウは笑う。そして、顔を上げ、いつの間にか、サクの魔法のベールで覆われていた空間から、フヨウは庭木の影を見た。
「余程、気に掛けられているようで」
 サクの口元が、ぐにゃりと歪められる。青いベールは、ゆらゆらと揺れているようで、その青い瞳に宿った好奇の光とは、対照的だった。この嫌味といい、面白がっている、とフヨウは確信した。
「この時間だ。ハロン様は、隣の棟にいるだろう。先が思いやられるな」
 フヨウは溜息を吐く。先ほどまでとは打って変わって、サクが面倒臭そうに目を細めたのは、言うまでも無い。サクは、飛んでくる矢を弾き返したり、呪いを打ち返したりするのが好きなわけではない。


 一体どれだけの時間が掛かっただろうか。多種多様な飛び道具を打ち返し、呪いを消し、仕掛けられた刃を避ける。フヨウの抜群の身体能力と、サクの並々ではない魔法の実力のためか、二人は無傷で目的の場所へ辿り着いた。
 フヨウは扉をゆっくりと開けた。
 小さな部屋で、黒い髪の男が窓の外の夜空を眺めている。横顔は、酷く無表情だった。しかし、青紫の瞳が、入り口の二人の方へ向けられたときには、その表情に、驚きの色が差していた。
 しかし、すぐに、どうしたのかな、と尋ねるかのように微笑む。ハロンは決して穏やかな性格ではないが、無意味に争いをするような性格でもない。しかし、それでも、最後にした会話は、穏やかなものとは言えない。ユンリの言っていたことは、正しかったんだろう、とフヨウは思った。
「ハロン様、私は家を出ます」
 フヨウは静かに、しかし、はっきりと言った。青紫の瞳が細められる。
「私は外の世界を求め、外の世界に求められています」
 フヨウはそこまで言ってから、しっかりとハロンの方を見た。
 サクは、フヨウの方を見ていた。相変わらず、揺れ続ける青い双眸に、緋色を映し、口元は緩やかに結ばれている。
 ハロンは黙っていた。しかし、暫しの沈黙の後、それを静かに破った。
「外へ出るためには、同胞も殺すと」
 その声は、決して太い声ではなかった。しかし、迫力はあった。ぐらりと揺れるような響きをしていた。それは、ハロンの声の質ではないだろう。ハロンの内面や、長としての心が、迫力となって現れたのだ。
「刃を向けるものには容赦はしません」
 フヨウは、それに臆することは無かった。ハロンを見据える目は変わらない。
 その言葉に、表情を歪めたのは、ハロンだった。
「奴らが、お前に刃を向けたのか」
「私たちが命を狙われていることに、お気づきにならなかったのですか」
 その言葉に、微塵の怒りも、失望も混じっていなかった。そり言葉が、淡々としていることに、フヨウが自分で気付くほどだった。今までに、怒りも失望も抱かなかったといえば、嘘になるだろう。しかし、家を出るずっと前に、フヨウは既に諦めていたのだ。むしろ、憎たらしいのは、弱い自分である。
「ここに来る間も、毒矢を弾き、床に仕込まれた呪いや刃を片付けてきたところです」
 フヨウは、相変わらず、淡々とした口調で続けた。その言葉に、不動だったサクが頷いた。雷の国の一件とは次元が違うが、緊張感が強いられ、相当堪えたのだろう。
「母上も、ハロン様の寵愛が薄らいだ瞬間、殺されるでしょう」
 フヨウの言葉が切れた後も、ハロンは、黙り込んでいた。ふわりと、窓から夜風が流れてくる。漆黒の香りは、静かな空間を洗い流すかのように流れる。
「何故言わなかった」
 漸く、ハロンが重い口を開いた。その質問を予想していたフヨウは、すぐに答える。
「ハロン様が、苦しまれると思ったからです」
 痛々しい響きは全く無い。響くのは、フヨウの穏やかな声だけだ。
「板挟みの苦しみを、私と母は、身を持って体験していました」
 何と何の板挟みかは、ハロンは想像できただろう。ハロンは、ユンリやフヨウに向けられた陰口の存在を、全く知らないわけではなかった。
 ハロンは再び黙った。この沈黙は、ハロンがフヨウに負けていることを示しているではない。ハロンとフヨウの駆け引きに、情勢もない。ただ、ハロンは、慎重に言葉を選んでいた。
 フヨウはそれに気付いていた。顔を僅かに強張らせ、ハロンを見る。
「龍の力を外へ出すことへの弊害を考えたか」
 フヨウは、口元に微かな笑みを浮かべた。
「私は、簡単に捕えられるほど弱くはありません。六年間は、一人で生きてきたのです」
 フヨウも、最初の方は魔法を使っていた。しかし、魔法はロゼを髣髴とさせるものだった。フヨウは、できる限り魔法を使わずに済むように、剣の腕に磨きを掛けた。何度も何度も殺されかけたが、次第に、強くなっていった。それには運もあるだろう。しかし、運も実力の内だ。フヨウがこうして生きている。それは、フヨウが強いということの何よりもの証拠だ。
「私は、自分の力から逃げました。しかし、それで手に入れた物があるのです」
 フヨウは穏やかに笑った。フヨウ特有の笑い方だ。サクやクリス、ジェイクにとっては、一番に浮かぶフヨウの笑顔だ。
 自らの力を捨てたことで、フヨウは夜の君主となった。フヨウは、魔法に依存し続ける者が気付かないことに気付いたのだ。それは、フヨウを夜の君主にした。慕われ、様々な人と話す中で、フヨウは自分が何者で、自分はどのように振舞うべきであるかを、自身の手で選んでいった。
 フヨウの中の、夜の君主という側面は、サク・セイハイという人間も引き寄せた。フヨウと相容れることのない存在だ。しかし、それ故に、お互いを強くできる存在だ。
 そして、何より、フヨウに確固たる存在意義を与えていた。存在の義務と意義は、時として人を縛る。しかし、それは、人を強くする。
「それならば、力を示せ。お前の力を、龍族全員で受けてやろう」
 フヨウの口元が歪んだ。しかし、ハロンの次の一言で、フヨウは自分の楽観主義を反省することになる。
「勿論、それには俺を含める」
 フヨウは、明らかに自分の顔色が変わったのを感じた。サクは、隣で小さく溜息を吐いている。
 そんな時だった。がらりと扉が開き、夜闇が一気に差し込んでくる。澄み渡る漆黒を背景に現れた女は、フヨウに良く似ていた。ただ、比較的小さな二本の剣を持つフヨウと違い、手には三節棍が握られ、腰には鎖鎌と金属の輪が下がっていた。
「ハロン様……いえ、この莫迦族長様。あなたのお相手は私です」
 漆黒の三節棍がギラリと光る。女の表情は実に真面目だった。フヨウは目を細めて、女の方へ顔を向けた。すると、漆黒の背景に、二つの影が揺らめいているのが見えた。ぼんやりとした影しか見えないのだが、フヨウは、それが誰なのかがすぐに分かった。そして、驚いた。
「言いたいことが、山ほどあるのですよ」
 ハロンは黙って聞いていた。ユンリの悠然とした姿を見てから、フヨウは再び闇に目を戻した。
 ありがとう。それが伝わることを祈りながら、フヨウは、夜闇に微笑む。サクとクリスとジェイク。役割分担など、したとは思えない。しかし、各々がフヨウとユンリを取り囲むようにして、道を開いた。
 もし、フヨウのところに来たのが、クリスやジェイクならば、フヨウは立ち上がることができなかっただろう。フヨウは、サクに手を差し伸べてもらった覚えは無い。しかし、それだからこそ、サクでなければいけなかった。それは、ユンリにも言えることだろう。サクが行ったところで、どうにかなるものではない。
「お前、それでこそお前だ。ユンリ、俺が惚れ込んだ女だよ」
 ハロンの、場違いなほど明るい笑い声が響く。その顔に浮かべられているのは、無邪気な笑顔だ。先ほどの堅い表情からは、考えられないほど輝いていた。
「本当にどうしようもない人ですね」
 ユンリは微笑みながら溜息を吐いた。
「ユンリ、お前もどうしようもない奴だ。だから、娘もどうしようもない奴になってしまったじゃないか。全く、救われないな」
 困った家族だ、とハロンは笑い続ける。しかし、すぐにフヨウの方を見て、笑うのを止める。
「フヨウ、解放されたいと願うのなら、俺を超えろ。俺たちはお前を止める」
 ハロンは、にやりと笑った。フヨウは、そのまま頷いた。覚悟はできている。暗闇の方へ目をやれば、二つの影は笑っているようだった。
「フヨウ、安心しなさい。この莫迦で空気が読めないあなたの父親は、私がしっかりと押さえつけておくから」
 ユンリは笑った。その笑顔は、フヨウとあまり似ていない。フヨウの笑顔が穏やかな笑顔だとしたら、ユンリの笑顔は怜悧な雰囲気を漂わせる笑顔だった。生真面目な気質を持った聡明な女性。その笑顔を見れば、たとえユンリを知らない人間でも、それを分かってしまうような、そんな笑顔だ。
「頼みます」
 フヨウがそう答えた次の瞬間、金属音が鳴り響いた。ハロンの棍と、ユンリの三節棍をぶつかったのだ。
「イシア、フヨウが逃げた。捕えろ」
 ハロンの叫び声が響き渡る。戦いの火蓋は切って落とされた。フヨウとサクは、部屋から飛び出す。ざわめく夜の屋敷の冷たい廊下で、フヨウは、二本の剣をすらりと抜いた。
 空は澄み渡る闇に覆われている。ふらりと翻した空色のコートまでもが、夜に溶け込むようだった。

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