The Night Monarch
Dragon of the Grassy Plain


 美しい夜空の下は、騒然としていた。
 フヨウは、刃物を持たないサクを守るようにして、外側を走った。向けられる刃は、刃で応戦しなくてはいけない。走りながら、数本の刃を相手にするのは、流石のフヨウでも大変だったが、サクはさらに大変そうだった。
 龍族の古の魔法。その力は強大だった。屋敷の中のため、大掛かりな魔法は使ってこないが、サクが何度も何度もベールを張りなおさなくてはいけないほどだった。そのような過酷な状況に、流石のサクも、汗が滲み出ていた。
 クリスとジェイクは、無事に逃げたのか、それとも戦っているのか、フヨウには全く分からなかった。しかし、二人の性格からして、前者の可能性はきわめて低い。
 仕掛けられたナイフにサクが舌打ちし、それを見かねたフヨウが庭へ一歩を踏み出した時、フヨウとサクは二人とも舌打ち所では済まされなくなった。
「相当恨まれているようだね」
 サクの声は、あまりにもさらりとしていた。
「全くだ」
 ずらりと周囲を囲まれ、背後にすら逃げ道は無い。緊迫感の無い声で、やり取りをした二人だが、状況は十分すぎるほど緊迫感があった。
 にじり寄られ、二人は自ずと背を合わせる。フヨウはゆっくりと息を吐く。風は絶え間なく吹き、静かな空間を、一層際立たせる。
 一瞬、風がやんだ。その瞬間、糸が切れたかのように襲い掛かってくる。フヨウは、二本の刃物だけではなく、足まで使って応戦した。魔法のベールが何かを弾く音がする。しかし、サクも魔法しか使っていないわけではなさそうだった。魔法使いだからといって、力が弱いわけではない。しかし、持って数十秒だ。フヨウは早くも、激しい痛みを発するの切り傷を、幾つか作っていた。
 フヨウは、目の前にいる人物を足で思いっきり蹴り倒す。一本のレイピアで二本のナイフを食い止める。ククリでサクの方へ向かった長剣を止める。その体勢のフヨウに、向かってきたのは鎖鎌だった。
 死ぬ、と思った瞬間、怒涛の如く水が流れてくる。フヨウは、サクの腕を掴む。サクの生暖かい手も、しっかりとフヨウの腕を掴んだ。そして、そのまま押し流される。土砂が混ざった水流に、目を開けることすら叶わない。しかし、途中でフヨウは体が止まるのを感じた。サクが、もう片方の手で何かに掴まっているらしい。生暖かい感覚のする手は、フヨウをある一定の場所に留める。
 しかし、水はすぐに消えていった。フヨウは立てると思った瞬間、体勢を立て直す。
「とりあえず、全員いるな」
 聞きなれた男の声。そちらに顔を向ければ、そこには予想通りの青年が座っていた。
 そこは、小さな部屋だった。柱が一本、立っていた。そこに、サクが掴まっていたらしい。水が跡形も無く引いた小部屋には、サクとフヨウ、そして、ジェイクとクリスがいた。
「ちょっとやり過ぎちゃったかしら」
 クリスが明るく言う。水色の瞳は、いつものように明るく輝いている。
 フヨウは苦笑いした。魔法の水のため、体は乾いているが、疲弊している。しかし、激流の中、機知を働かせ、柱を掴み、フヨウまで支え続けたサクは、フヨウ以上に堪えたらしい。サクは、疲れをあまり表に出さないが、今はぐったりと柱に寄りかかっていた。
「魔法、掛けてはあるけど、それ程持たないから」
 サクが、溜息を吐いた。長い手足は投げ出され、青い双眸はフヨウに向けられている。サクの体の至るところに、傷跡があった。痛むのだろう、顔は強張っていた。
 フヨウは、しっかりと閉められている扉を見た。サクは、ユンリの掛けていた魔法と同じ魔法を掛けているらしい。サクの顔色は蒼白だが、頭の回転は健在のようだった。
「サク殿、感謝する」
 フヨウはゆっくりと息を吐いた。サクに感謝すべきことは、多い。
 サク・セイハイは、精神的に、手を差し伸べることはしなかった。しかし、歩き続けることも無かった。ある一定の距離から、ずっと立ち止まってフヨウを見ていた。だが、手首を掴む力だけは、強かった。
「本当に、ここまで僕を疲労させたのは、あんたが初めてだ」
 サクが、呆れたように笑った。
「良いじゃない。あんたも、ちょっとぐらい苦労しないと。いつも余裕面なんだから」
 クリスのその言葉に、サクはにやりと笑った。態々余裕面を作ってやるぐらいの元気はあるらしい。
「クリス嬢、ジェイク殿も、何と礼を言ってよいのか分からない」
 フヨウは、クリスとジェイクに向き直った。
 ユンリを奮い立たせるのに、二人の力は不可欠だった。
「気にしなくて良いのよ」
「好きでやってるんだから」
 クリスとジェイクは、明るく笑う。
「そういうことは、後でやって。流石に持たない」
 サクが弱音を吐いた。すまないね、と謝る間も無く、勢いよく扉が開く。闇夜を背景にしながらも、くっきりと浮かび上がる黒髪を持った青年が、立っていた。
「フヨウ、どうしたの」
 ロゼは、僅かに顔を顰めた。フヨウはロゼの手元を見た。ロゼの手には、漆黒の棍が握られている。
「そこを、通して頂けませんか」
 フヨウは顔を上げ、ロゼを見て、そう言った。
「ハロン様から直々に命が下ったんだ」
 フヨウは、ゆっくりと剣を抜いた。自らを落ち着かせるように、ゆっくりと呼吸をする。
 フヨウとロゼは、武器だけでは互角だろう。しかし、向こうは魔法を使う。たとえ、数年前に、フヨウよりも弱かったとしても、ロゼの魔法の腕は、並大抵のものではない。
「クリス、ジェイク。雑魚を片付けろ」
 サクは、いつになく命令口調で、クリスとジェイクに言った。それは、決して荒々しくは無かったが、普段に増して低く、余裕のある声ではなかった。
「ちょっと、あんた、体はどうするの」
 クリスとジェイクが慌てたのは、言うまでも無い。ぐったりと座っていた青年は、静かにロゼを見ている。手元には、滅多に使わない小杖が握られている。サクが、フヨウと共に、ロゼの相手をする気だ、ということを、ジェイクまでもが悟っていた。
「大人数を相手にするのは御免だ」
 サクは、普段の穏やかさの欠片も感じられない、かと言って冷たくも無い、無機質な声で言った。相当疲れていて、そこまで手が回らないことが分かる。
「そうかと言って、座っているのも嫌なんだ」
 ロゼから片時も目を離さずに、サクは立ち上がる。いつも全力を出すことの無い青年だからであろうか。揺れながらも、確かな強さのある青の双眸は、ぐったりとしていた体とは不釣合いだった。
 フヨウは、普段は本気を出さないサクとはかけ離れた様子に、驚いていた。しかし、すぐに考え直す。
 セイハイは、魔界を支配するために生み出された人間だ。その血が、政治抗争を勝ち抜くための野心や強さで溢れていても不思議ではない。普段、決して覗かせない一面を見せてのは、疲労のためだろうか。そう考えるのが、一番自然だろう。
 フヨウは三人を見た。サクの瞳は言うまでも無く、いつものように揺れる青だが、細められている所為か鋭い。クリスとジェイクも、サクを察してか、既に心に決めたようである。
 フヨウはゆっくりと息を吐くと、ロゼに斬りかかった。金属音が数回鳴り響く。フヨウは、ロゼを扉から離すように、微妙に位置を変えながら、棍を防ぐ。
 小さな竜巻が、ハロンの足元に起こった。サクの魔法だ。そして、その次の瞬間、クリスとジェイクが飛び出す。棍が、大きく回される。フヨウは、背後に壁が迫っていることに気付いた。迫る棍に、反射的に体を捻らせ、ロゼの背後に回る。上手く避けた、とフヨウは確信した。
 しかし、それはロゼの罠だった。フヨウが避けた棍は、サクに迫っていた。フヨウは、慌ててサクとロゼの間に入ろうとした。間に合わない。しかし、フヨウはレイピアを二人の間に入れ込んだ。重い衝撃が伝わる。だが、それは一瞬だった。
 驚いて扉の方を向くと、先ほどまでいたはずのロゼの姿が見えない。サクの方を見れば、にやりと口もを歪ませる。
「吹き飛ばした」
 サクはさらりと言った。
「つまり、あの庭のどこかにいるということかね」
 フヨウがそう聞き返すと、サクは頷いた。漆黒の庭。騒然としているが、動く者は見えない。待ち伏せされている。一々、サクに確認を取る必要はない。
「これは困った状況だね」
 他人事のように、サクは呟く。フヨウは、サクを見た。誰の所為だも、という心を篭めて、欠伸をする青年見た。
 その時だった。突然、廊下に二つの影が現れる。一組の男女だ。二人とも、サクとフヨウには目もくれない。ユンリとハロンの激しい戦いだ。人とは思えない速さで武器を使う。ユンリは様々な武器を手にしており、ハロンは棍一本で、それを受ける。
 ユンリは、鎖鎌、三節棍、その他様々の飛び道具を使って、身体能力の差を補っているようだった。時折使う魔法も無視できない。廊下に電気が走り、火花が飛び散り、金属音が鳴り響く。次元が違う。
 ハロンは、相手の多彩な攻撃を、単純な棍一本で受け止めていた。鎖鎌は巻きつけ、魔法は相殺し、予想のつかないような動きをする三節棍を、しっかりと棍で止める。
 しかし、ユンリが距離を取ったため、二人はすぐに見えなくなった。
 次元が違う、とサクは思ったのだろうか。いつも、しっかりと何かを見ているようで見ていない目は、二人の方へ向けられていた。フヨウも、二人が戦う姿を見るのは、初めてだった。
 ハロンとユンリ。昔のユンリは、身分を憚らず、ハロンに対して、言いたいことをしっかりと言っていたらしい。そして、ハロンと同じぐらい強く、頻繁に戦っていたらしい。そんなユンリの姿をフヨウが知らなかったのは、ユンリが、フヨウのためにハロンに遠慮してきたからだ。もし、ハロンの気に触るようなことがあれば、それを理由に、フヨウは同胞に殺される。ユンリは、そう考えて、何も言わず、ただハロンに従うだけになった。
 それがまた、ユンリを、フヨウを苦しめたのは言うまでもない。フヨウはゆっくりと息を吐いた。目の前に広がる漆黒は深い。
「行こう」
 サクは首を傾け、全てを覆い隠すような闇を見ていた。フヨウは頷く。水の濁音や人々の怒声が響く中、立ち止まっていることはできない。
 フヨウは、剣をしっかりと握り、闇の中へ飛び出した。すぐに鋭い空気が動く。左だ。そう確信したフヨウは、左側に剣を構える。鋭い金属音が鳴り響いた。
 闇に溶け込むような色をした黒い棍は、強烈な重さを持っている。フヨウは、身を捻り、それを何とか流す。棍と二刀流。どう考えても、フヨウの方が有利だ。しかし、力が違う。サクの魔法も、相殺される。
 体力や、力では負けるだろう。一気に畳み掛けなくてはいけない。フヨウは、ロゼと間合いを取り、ゆっくりと息を吐いた。
 フヨウは、剣術を使い分けている。手合わせをするための剣と、殺すための剣だ。ひたすら急所だけを狙う後者の剣を、フヨウは得意としていた。
 今まで使っていたのは、手合わせをかるだめの剣だ。しかし、されで埒が開かないのならば、切り替える必要がある。しかし、それは一種の賭けである。もし、ロゼの喉元を狙い、相手が棍で防げなかった時、ロゼの喉元にその刃が到達する寸前で、止めなくてはいけない。それができなければ、兄をこの手にかけてしまう。
 ロゼは、サクの魔法を避けたり、相殺したりしていた。フヨウは、そんなロゼに向かって、剣二本を突きつける。フヨウの纏う空気が変わったことに気付いたのだろうか。ロゼは、目を見開き、長い棍を上半身を守るように動かした。フヨウは、ククリが弾かれたのを感じた。漆黒が一瞬途切れる。フヨウの視界に白い喉が横切った。フヨウは、レイピアを勢い良く突きつける。
 そのレイピアは、その白に触れるか否かの瞬間、静止した。」
「降参して下さい」
 フヨウは、荒い息を整えるように、ゆっくりと呼吸をしながら、兄に向かって言った。勿論、レイピアは突きつけたままだ。
「一段と強くなったね。降参する」
 ロゼは、優しく笑った。フヨウはゆっくりとレイピアを戻す。
「兄上、美しくない剣を、どうかお許し下さい」
 フヨウは、風に流れるような声で、そう言った。
 フヨウは、美しくない剣で戦った。そのことに、罪悪感があった。勝った爽快感など無い。どんな時でも、ロゼと戦って、良い気分で終わったことは、一度も無かった。
「良いよ。外で、そんな剣を使わないといけないと思うと、心配だけどね」
 最後まで、ロゼは優しく笑っていた。フヨウの頭を撫で、少し離れた場所で座り込んでいるサクを見る。
「サク君、フヨウをよろしく」
 それが、最後の言葉だった。じゃあね、とロゼは笑い、ふらりと立ち去った。不自然な程にあっさりとした立ち去り方だったが、逆にそれがとても自然だった。フヨウは何も言わなかった。否、言えなかった。
 フヨウはロゼが立ち去った後、すぐに周囲を見渡した。嫌なざわめきである。未だに、水の音は聞こえるが、二人だけでは抑えきれなかったのだろう。フヨウとサクは、囲まれていた。
 彼らは、待ち構えていたのだろう、とフヨウは思った。ロゼのいる前で、フヨウは殺せない。だから、ずっと機会を窺っていたのだ。
 一度立ち去ったロゼが戻ってくる可能性は、皆無に等しい。フヨウは、目を細めた。
 フヨウはサクの傍まで走る。やってくる刃物を弾いていく。当然、体に突き刺さる物もある。フヨウが駆け寄ると、サクは立ち上がり、ゆっくりと息を吐いた。
 輝く銀を跳ね返すようにして、剣を使う。限界だ。フヨウがそう思った丁度その時、遠くで空気が収束した。サクの魔法ではない。大きな魔法が使われる。おそらく、一点集中型の魔法だろう、とフヨウは思った。
 それからば、命が危ない、とフヨウは思った。刃物で襲われているサクに、強力な魔法は使えない。
 魔法が放たれた。閃光が走る。しかし、その閃光が、フヨウたちの所へ到達するより前に、フヨウのすぐ隣で空気が収束した。闇のベールが閃光を跳ね返す音と、刃物が柔らかい物を突き刺す時の特有の音が響く。
 生暖かい血が、フヨウの背中に伝わってきた。しかし、まだサクは生きている。生暖かい感覚は、絶えず上から流れ出ていた。
 そんな時、再び空気が収束する。サクは限界だ。フヨウが魔法を使わなくては、次こそ二人とも死んでしまうだろう。フヨウは、目を細める。助けられるはずの命を、助けなかったら、それは重い罪になるだろう。後ろで足を抑える青年は、重い。
 フヨウは歯を食いしばった。剣だけで、魔法を薙ぎ払う。体中が痛む。感覚が薄れていく。ただ、神経には、確かな激痛が残っている。
 その時、二つの影が、漆黒の屋根から舞い降りた。銀の髪を靡かせた一組の男女だ。フヨウもサクも、その男女に見覚えがあった。ランシア・スカイアイと、エフィア・ストアライト。雷の国での一件では、敵として戦った相手だ。
 レイピアが舞い、闇の魔法が轟く。威力、精密な技術、全てが、目を見張るようなものだった。
「もし、お前が本当に強くなりたいのなら、貫け」
 エフィアの低い声が響く。口数の少ない男は、はっきりと言った。
「使えるものを使わないでいることは、罪となります。あなたが、それを背負い続けられると、私は思えません。見返したければ、見返しなさい。最後の最後まで、罪を重ね、背負い続けなさい」
 厳しい言葉だった。ランシアの低く落ち着いた声は、フヨウに響いた。
 もし、サクが死んでいたら、自分が耐えられたかどうかが、フヨウには分からなかった。仲間を失った喪失感を遥かに上回るであろう罪悪感に、押し潰されず、為すべきこと為し、自分であり続けられるだろうか。
 その答えは、フヨウには分からなかった。しかし、ランシアの言葉は、フヨウの心理を完璧に把握したものだった。
「そっちに水行くわよ」
 クリスの明るい声が響いた。ふと、フヨウの心が軽くなった。鮮やかな水の音が響き、途端に体が浮く。フヨウが慌てて、上を見ると、ランシアの顔があった。
「お迎えが参ったようですよ」
 銀色の髪の狭間から見える空。そこに姿を現したのは、大きな鷲だった。銀色の翼に、美しい金色の嘴と、アンバーの瞳。漆黒の夜でも、煌くその姿は、誰もが見惚れるようなものである。闇の使いであるシルバーイーグルだ。
 強い風が吹いた。ふわりと体が浮き上がる。体がランシアの手から離れ、宙に浮く。闇に包まれたかと思うと、暖かな光の中へ落とされる。柔らかい羽毛が、フヨウを包み込んだ。
 フヨウはすぐに立ち上がる。
「サク殿、大丈夫かね」
 白銀の羽毛に、血塗れのサクが横たわっていた。フヨウはサクに駆け寄ったが、近くにいたクリスが、それを制する。フヨウは、無理に動こうとせず、サクを見た。サクは、下を覗き込むようにして見てから、微笑を浮かべる。
「フヨウ、夜があんたを呼んでるよ」
 フヨウは、クリスとサクの心遣いを悟った。
 シルバーイーグルは低く空を飛んでいる。フヨウは、立ち上がった。空には清々しい風が吹く。澄み渡る漆黒。フヨウが、嫌い、愛すことになった美しい夜が広がっている。
 フヨウは、穏やかに笑った。


 一組の男女が、屋根の上から空を眺めていた。
「終わったか」
 ハロンはゆっくりと息を吐く。口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
「考え無しのハロン様、完敗でしたね」
 さらりとユンリが言う。彼女特有の怜悧な笑みを浮かべ、娘の飛び去った空を見ている。
「まさか、あれだけたくさんの者が、助太刀に来るとはな」
 ハロンは笑った。
 突然現れた一組の男女に、一行を乗せて飛び去った銀の鷲。そして、命懸けで戦っていた、フヨウの仲間たち。フヨウを外の世界に出そうとする者は、ハロンが考えていた以上に多かった。身内以外とは一切関わらなかったフヨウしか、ハロンは知らなかったのだ。
「三人の仲間を見ましたか」
 ユンリは、流れる草原に目を向け、そう尋ねた。草原の中の発光する草が、風で波打ち、艶やかな光を放っている。
「三人が、全てを知っているわけではないだろうな」
 ハロンも、ユンリ草原を見た。
 三人の仲間は、三人共が共通の認識を持っているわけではなさそうだった。特に、ジェイクという青年は、ほとんど何も知らないようだった。しかし、三人共、フヨウのために必死に戦っていた。
「嬉しいことですよ。三人は、フヨウが作り上げてきた物に惹かれたのですから」
 ユンリの言葉は、鈴の音のようにハロンの中で響く。
 望まれた自分ではなく、自分が望んだ自分を作り上げていたことを、碌に話していないが、ハロンも分かっていた。自分の知らないフヨウだった。
「堂々としていて、大胆不敵な雰囲気は、この屋敷では決して見せなかったでしょう」
 ユンリは微笑んだ。
 全てを溶かすように、受け入れるかのように、しかし、自分はしっかりと構えるような態度は、屋敷のフヨウとは正反対のものだった。ハロンは、ゆっくりと息を吐いた。
「フヨウ自身も、気付いていなかったようですから」
 ハロンが何も言わない内に、ユンリが言った。よく喋るユンリを、懐かしいと思いながら、ハロンは空を眺める。
「最後、立ち去る時のフヨウを見た。あんな奴だったのか、と漸く分かった」
 突然現れた巨大なシルバーイーグルに、ハロンとユンリは戦いを止めたのだ。
 フヨウは、堂々と夜に立っていた。まるで、草原を吹く風を従え、時の支配者、夜闇の象徴のようだった。距離が、それほど離れていたわけではなかった。しかし、人の世界では無い世界から、人の世界を見ているような気がしたのだ。
「王のように笑いますね」
 ユンリと笑った。言動とは裏腹に、浮かべられた笑顔は控えめだ。フヨウとは、正反対の笑顔だ。
 不敵な笑みでも、高笑いでもないのに関わらず、王者のような笑顔。それは、穏やかだが、優しい笑みではない。何のために、何を笑っているのか。それが、ハロンには分からなかった。
「あいつは、族長なんていう座には収まりきらないだろうな。もっと大きな器が必要だ」
 フヨウは、人の上に立つものにはならないし、なれないだろう。それは、幼き頃から、分かっていた。ロゼは、人の上に立つべき者だったからこそ、ロゼは自分に絶対的自信を持っていたのだが。
「どうなるんだか」
 人の上にも、人の下にも立たず、しかし、人と関わり続ける人生を、フヨウは送っていくことだろう、とハロンは考えていた。しかし、はっきりとは分からなかった。昔は、分かりやすいようで分かりにくい少女だったが、今は掴み所が無い。しっかりと地面に立っているのに、その真意は読み取れない。
 ハロンが心配の色を見せたからだろうか、ユンリが明るい音色で言った。
「救いようも無い莫迦二人の間に生まれたのです。救いようの無い莫迦以外の、何になりましょうか」
 それは、冗談では無いのだろう。理解をできない者のほとんどは、莫迦なのだ。ハロンは笑う。
「それは良いことだ。新しい何かを生み出すのは、大抵、莫迦だからな」
 中途半端な莫迦は良くない。しかし、莫迦であることを貫き通した莫迦であれば、その者は大きな力を持つことになる。


 クリスが水の魔法を使い、サクの傷口を塞いだ。塞いだだけなので、安静にしなくてはいけない。フヨウは、サクの血で汚れたシルバーイーグルの羽根を拭き取った。
 クリスとジェイクは、何も尋ねなかった。ただ脱出が叶ったことを喜び、自分たちは頑張った、とはっきりと言って、疲れたから寝る、とさっさと眠ってしまった。
 クリスとジェイクから少し離れた所に、フヨウとサクはいた。サクは長い手足を投げ出し、ぐったりとしているが、目は開いていた。フヨウはその隣で足を伸ばしていた。サクほどではないにしろ、フヨウも怪我はしている。クリスに気付かれぬように、無理をしたため、体は酷く疲れていた。しかし、フヨウも起きていた。
「知り合いなのかい」
 サクが尋ねた。フヨウは頷く。
「雷の国に連れて行ってくれたんだ」
 サクが、再び口を開く前に、フヨウは続けた。
「貴殿を縛り続ける姫君の御使いだよ」
 その空を見上げる青の瞳が、ぐらりと揺れた。不安げな揺れ方では無い。動揺したような揺れ方でも無い。サクは、不安や動揺のために、青を揺らすような者ではない。サクは、揺れ無い程強くは無いし、弱くも無いということだ。
 暫くは、双方何も言わなかった。そんな時、フヨウは、突然何かを思い出したかのように笑った。
「我が君、如何なさりましたか」
 風と共に囁き声が流れてくる。そして、すぐに、ふわりと小さな精霊が現れた。夜空のような衣を纏い、夜闇のような髪をしている。空の精霊、アスリィだ。
「アスリィ嬢、彼の名前を聞いて頂けないだろうか」
 フヨウがそれだけ言うと、すぐに理解したらしく、精霊は風に流れるようにして消えた。
 シルバーイーグルの声が響いた。
「アイテールというらしいです」
 アスリィが舞い戻ってきた。フヨウは穏やかに笑う。
「ほう、アイテールとは、天空の神の御名ではないか。輝ける神の御名。貴殿に相応しい。アイテール殿、実に感謝している。貴殿がいなければ、私たちは失敗していたよ」
 フヨウの声はそれ程大きくなかったが、異様なほどに闇に響く。
 すると、またシルバーイーグルが鳴いた。
「アイテール、と気軽に呼んで頂きたいそうですよ」
 アスリィが微笑む。
「アイテールと呼んでも良いのかね。では、そう呼ばせて頂こう」
 フヨウも微笑んだ。
「フヨウ、僕のことも、呼び捨てで構わないよ」
 黙ってそのやり取りを聞いていたサクが、さらりと言った。口元は、呆れたように笑っている。
「良いのかね。それならば、早く言いたまえ」
 フヨウがそう言うと、サクはあからさまに溜息を吐いた。フヨウは理由が分からず目を細める。
 そして、フヨウは口を開く。
「しかし、結局逃げてしまったね」
 それが、ロゼに関する言葉だったことは、サクにも分かったらしい。
「悪くは無いと思うよ」
 サクはそう言った。慰めるような言葉ではなく、突き放すような言葉でもなく、サクにとっては、単に感想を述べただけのようだった。
「人は前に進め、と言う」
 魔法と剣の修行を積み重ね、多くの者の話を聞き、多くのことを学ぶ。人に親切をして、自らの精神も強くしていく。進む道、無数にある。しかし、前へ進み続けることは難しい。人は怠け者だ。どこかで手を抜いてしまう。
「進むべき道が、分かるのならば進むのが良い」
 前へ進むことは良いことだ。ハロンやロゼがそうであるように、前へ進み続ける人は、強い。
 幼き日のフヨウも、前へ進み続けていた。しかし、いつの間にか、道がなくなっていた。前へ進み続ける人が強いのであって、前へ進んだ人が強いのではない。フヨウは、それを分かっていた。だからこそ、進んだことを誉められるのが、酷く辛かった。
「もし、前に道が無く、進めなくなった時、サク、君だったらどうするかね」
 隣の青年は、天を仰いでいる。表情一つ変えずに、フヨウの質問に答える。
「立ち止まって、僕の道を塞いだ者を、どうやって陥れるかを考えるね」
 さらりと言い放ったこの男の仕返しは、相当な物だろう。しかし、フヨウには、そこまで誰かに執着するとは思えなかった。
「君だったら、陥れる前に、陥れることに飽きてしまいそうだ」
 フヨウがそう言うと、サクは嘘っぽい笑顔を浮かべた。自覚はあるらしい。しかし、サクが誰かを執拗に恨むとなると、それは相手が可哀想だ、とフヨウは思った。サクは頭が良い。
 フヨウも天を仰ぐ。漆黒の空に、風が吹く。アイテールの放つ光が、夜空の漆黒を際立たせる。シルバーイーグルの放つ光を、月光と例えた者がいるらしい。フヨウは、的確な表現だと思った。
「ランシアと、あれから一回会ってたのかな」
 ずっと黙っていたサクが、口を開いた。
「ロゼ様と会う前日だ。小言を言うだけ言って、お帰りになった。どうやら、貴殿の作戦は成功したようだよ」
 フヨウがさり気なく誉めても、サクは嬉しそうな顔をしない。歪んだ笑みを浮かべて言う。
「僕は、フヨウと違って、行き当たりばったりではないから」
 それは、フヨウにとっては痛い嫌味だった。当然のことだが、サクは根に持っている。後のことを考え、空の国で全てを話していれば、無理矢理逃亡する必要も無かったのだ。
 フヨウは居心地が悪くなってきた。しかし、反対にサクは異様に楽しそうだ。
「私が行き当たりばったりだったら、彼らはどうなのかね」
 フヨウは、静かに寝息を立てている二人の連れの方に顔を向ける。幸せそうに眠る二人の天界人は、知識も無しに魔界へ入るなどという自殺行為が、自殺行為であることにすら気付いていない。
「この二人以下ならば、問題だろう」
 サクはにやりと口元をさらに歪めた。二人にとってはかなり失礼だが、二人とも眠っている。サクは、昼間には絶対にこんなことは言わない。
「今の言葉、クリス嬢に聞かれてしまえ」
 いつも、クリスに怒られてばかりのフヨウは、そう呟く。しかし、それは負け惜しみにしかならない。サクは、満面の笑みを浮かべていた。

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