The Night Monarch
Empty Moon
セイハイは魔法使いの一族だ。よって、白兵戦を仕掛けてくるような者が、セイハイではないのは粗確実である。よって、甲冑の門番はセイハイではないだろう、とフヨウは思った。フヨウはゆらりと門に近づき、門番の前で微笑んだ。
「月が儚い夜は如何かね」
フヨウがそう言って、漸く門番はフヨウの存在に気付いたらしい。慌てて持っていた槍を向け、エルフならば出て行け、と声を荒らげた。フヨウは髪を掻き分け、徐に耳を出した。すると、門番の顔色は変わり、二人の門番は顔を見合わせた。
「私はフヨウ。旅の剣士だ。サク・セイハイ殿にお会いしたい」
フヨウがそう言うと、門番の一人がフヨウの方を向き、堅い表情で答えた。
「訪問の予定は入っておりません。御引取り下さい」
フヨウは心の中で溜息を吐く。武力で負ける気はしない。しかし、刃を向けることは避けるべきである。フヨウは、城の中を血塗れのまま歩くのも、クリスとジェイクにそのまま会うのも、なんとしても避けたいことである。
「突然の訪問で、失礼だと存じている。どうにかして頂けないだろうか」
門番は黙り込み、もう一人の門番を見た。しかし、ただ首を傾げているだけである。フヨウは体にマントを巻きつけ、門を見た。高く聳える門扉がすっしりと鎮座している。石造りの門はずっしりと重い。
「いや、御引取りを……」
フヨウはマントの中で剣をゆっくりと抜いた。そして、一瞬のうちに二本の剣をマントから出し、素早く門番の喉下に突きつけた。ギラリと銀が光る。
「手荒な真似はしたくなかったが、友人の命が懸かっているんだ」
嘘は言っていない。切迫した状況ではないが、門前払いをされている場合でもない。
通してくれるかな、とフヨウは微笑んだ。ある程度の実力を持つ者ならば、相手の実力がすぐに分かる。門番たちは、おとなしく門を開けた。
地響きを立てて開く重い扉。フヨウは二人の出方を気にしながら、門の中へ入った。そして、再び門を閉めようとしている門番に、恭しく礼をした。完全に閉じられた門。フヨウは薄らと笑う。この門を生きて出られるかどうかは分からない。
フヨウは前を見た。一面に広がる鮮やかな青の薔薇の花園。静まり返った花園には、ただ、薔薇特有の香りだけが辺りを漂っている。
「薔薇。Rose。確かに、あの御方に相応しい」
薔薇の生垣を歩く。迷路の様になっている庭園。良く手入れをされているのだろう。枯れた薔薇は一つもない。深い緑と青。セイハイの色で彩られた庭園は、民族のイメージに相応しかった。しかし、フヨウが思い浮かべたのは、セイハイとは全く関係のない人物だった。
「好きにはなれないがね」
高貴な美。高嶺の花とはよく言ったものだ、とフヨウは思う。薔薇と葵。葵すぐに枯れてしまう。しかし、薔薇は美しく、強い。
「貴殿は良いね。棘がある」
ふと立ち止まって、フヨウは一輪の薔薇の花の茎に指を当てる。鋭い棘が指に食い込み、薔薇とも葉ともかけ離れた、紅い血が滴り落ちる。下の深緑が、紅く染まった。
「高貴な者に愛されるほど、辛いことはない。そうやって、全てを遠ざければ良い」
薔薇に纏わる話は必ずと言っても良いほど、愛憎が伴う。そして、悲劇である。フヨウは愛憎劇を嫌うのではない。むしろ、フヨウが嫌うのは、絶対的な愛である。薔薇の地位のように高く、そして、この庭園のように完璧で、一面に咲く薔薇の花のように澄みきった愛である。
フヨウは自嘲の色を口元に見せ、そのまま再び歩き出した。
薔薇の園は入り組んでいて、迷路のようである。城は見えるのだが、生垣の迷路は通路に向かって真っ直ぐに伸びているわけではない。生垣はフヨウにとって十分と跳び越せる高さである。飛ぶことを視野に入れ、生垣を見ていると、ふと隣からか細い声が聞こえた。
「あなたは、何方ですか。エルフの新しい庭師さんかしら」
フヨウは声のした方を向いた。少し離れたところから、青い瞳の少女がフヨウの方を向いていた。銀色の髪に青い瞳。セイハイである。
「お邪魔している。私の名はフヨウ。旅の剣士だ」
フヨウは深々と礼をした。すると、少女は青いワンピースを揺らしながら、近づいて来た。
「お客様なのですね。私はセリ・セイハイと申します。何方に御用があるのでしょうか」
少女、セリは優しく微笑んだ。その瞳はサクと同じ青なのに、全く違う色をしていた。セリの瞳は穏やかで、澄み切っていた。
「セリ嬢、私はサク殿にお会いしたいのだが」
フヨウは丁寧にそう尋ねた。すると、セリの表情が変わった。驚きと嬉しさの交じり合ったような表情である。煌々と輝く青が珍しくて、フヨウは目を細めた。サクがこんな表情をしたときには、碌なことがないということを、フヨウは知っていた。しかし、この少女がそんなことを言っているはずはないのだが。
「兄上は、先ほど、最上階にある父上の……領主ヨウ様のところに参上しているかと。私が玄関まで案内します」
ほう、とフヨウは口元を歪める。セリはサクの妹だったのだ。確かに面影はある、とフヨウは思った。しかし、サクと違い、この少女は純粋な感じである。無知の美、といったところか。ほとんど雷の国から出たことがないのだろう、とフヨウは思った。
サクの妹にも出会え、そして案内してもらうなど、良いことが続いたな、とフヨウは思い、微笑んだ。
「サク殿は、どういう人だと思うかね」
フヨウは隣を歩くセリにそう尋ねた。
「兄上は、素敵な御方です。気品があって、聡明で、優しくて……雷の国の領主に相応しい御方だと思っております」
そう言って、セリは嬉しそうに笑った。兄が誇らしいのだろう、とフヨウは思った。フヨウはそれに大きく共感できた。
「フヨウ様は、兄上の御友人ですか」
セリが尋ねる。フヨウは肯定の意を示し、穏やかに微笑みながら、セリの反応を待った。
「兄上にも、御友人がいらっしゃったのですね」
セリの反応は早かった。期待に満ちた輝き。その反応で、サクのセイハイとしての性格や立ち位置が、フヨウは何となく理解できた。
「ああ、他にも二人いる。貴殿は素晴らしい兄を持ったね」
フヨウがそう言って笑いかけると、セリは嬉しそうに、はい、と答えた。そして、僅かにその表情を変え、フヨウに尋ねてきた。
「フヨウ様には、お兄様がいらっしゃるのですか」
フヨウはぐらりと頭が揺れるのを感じた。この幻想的な薔薇の庭園にいるからこそ、記憶は生々しいのだ。フヨウは静かに息を吐いた。忘れるべきことではないが、今は考えないでいるべきことである。
「兄はいるよ。私はあの御方を尊敬している」
フヨウはそういった後、苦手でもあるけどね、と心の中で付け加えた。フヨウは胸騒ぎがしていた。フヨウの兄の目の色も、青を含んでいた。フヨウはもう一度大きく息を吐き、前を見た。目の前には純白の世界が広がっていた。
では、と去っていくセリにフヨウは丁寧に礼をした。
「Farewell, 貴殿に幸多きことを望もう」
セリは青い迷宮の中へ消えてしまった。
フヨウは、青い庭園を見ながら思った。サクのような人が兄だったら、全ては平穏に終わっていただろう、と。
フヨウは純白の扉に近づいた。巨大な扉には金の取っ手が付けられている。煌く金に、フヨウは目を細めた。白の純白が放つ光で輝いているのだ。
フヨウは扉を叩いた。すると、すぐに扉が開く。目の前に広がるのは、明るい光の溢れる絨毯敷きの広間である。フヨウはゆっくりと中に入った。しかしフヨウには、それをゆっくりと見る暇などなかった。
金属音が響き渡る。フヨウがククリとレイドで、両脇から飛び出してきた兵士の剣を止めたのだ。フヨウはすぐに相手の剣を流し、数人の兵士を素早く振り払った。
「挨拶としては、中々だね」
フヨウはぐるりと辺りを見渡す。十数人の剣士がフヨウを囲んでいた。皆、灰色の衣を纏っている。華やかな絨毯の上の灰色は、酷く違和感を憶える配色だった。
剣士たちは、じりじりとフヨウににじり寄ってくる。広間は異様に静かだ。
「舌を抜かれてしまったのかね」
フヨウはそう尋ねた。すると、フヨウの正面にいた剣士が頷いた。通りでセイハイ内部の情報が、国外に出ないわけだ、とフヨウは納得した。
また、フヨウは奴隷のように使役される他民族の話を聞いたことがあった。この閉鎖された小さな世界では、セイハイこそが最も優れた民族なのである。フヨウは薄らと笑みを浮かべる。サク・セイハイが、この世界でどれだけ異端だったのだろうか。異端な者は必ずと言っていいほど、危険視される。しかし、サクはされを上手く隠し通すことができていたのだ。フヨウは、サクが抜け目ないところがある理由が分かった気がした。
「素晴らしい絨毯に、染みを作るのはよくなかろう」
フヨウは、レイピアで美しい織物の絨毯をぐるりと指した。細かい模様が丹念に織り込まれている織物。途切れる事無く広間を覆う絨毯は、一体どれだけの労力が掛かっているのかは見当もつかない。
「対多人数は私の得意とするところだ。どうかね」
金属音が響いた。フヨウは提案を受け入れる気が無いことをすぐに悟ったのだ。フヨウは無数の輝きを避けながら、素早く二本の剣を流し、高く跳躍した。そして、そのまま正面の階段の手摺を飛び越える。
「悪いね。血を流すことになるとお互い困るだろう」
剣士たちは追ってはこなかった。実力はフヨウの方が数段上である。どちらにしろ負けるのだ。フヨウの言う通り、絨毯を汚さないのが身のためである。
フヨウはそのまま柔らかい絨毯を上った。駆け上がることもなく、悠然と。フヨウは、この豪華な絨毯に怯える、などということは全く無かった。決して慣れているわけではない。しかし、フヨウは、これ以上に怯えるべきことに出会ったことが何度もあるのだ。
「今日は貴方のことを何度も思い出してしまったよ」
どうしてくれるのかい、とフヨウは紡ぐ。ぐらりぐらりと頭は揺れ、脈拍が早くなるのだ。そして、何かを叫びたいような衝動に駆られる。しかし、フヨウはまた、それを無理矢理押さえ込んだ。些細なことで蘇る記憶。フヨウは、最早抑えることに慣れていた。
城は異様に静かだった。誰もいない。フヨウは黙って階段を上り続けた。そして、もう階段が無い、そこまで到達した時に、漸くフヨウは立ち止まった。二つの巨大な扉。フヨウはゆっくりと息を吐く。一人。奥の扉である。
フヨウは奥の扉をノックした。扉は低い音で響く。天井が高い所為だろうか。それは異様に響いていた。
フヨウは待っていた。何も言わず、何もせずにただ扉の前に立っていた。すると、扉の隙間から、掠れた声が聞こえた。フヨウは穏やかに微笑みながら、扉を開けた。
「今晩は月は儚い。私の名はフヨウ。しがない旅の剣士だ。椅子に腰掛けていらっしゃる貴殿は、ミン・セイハイ夫人で宜しかったかね」
品の良い部屋だった。敷いてある絨毯は上等な物だろう。そして、小さいが装飾の多い家具。美しい部屋の中の、小さな椅子に、銀色の髪の美しい女性が腰掛けていた。決して怯えた表情でもなく、かと言って微笑んでいるわけでもない。女性は無表情だった。
フヨウが丁寧に一礼すると、女性は口を開いた。
「ええ、私がミン・セイハイです。あなたは何をしに来たのですか」
ミン・セイハイ。雷の国の領主、つまりセイハイの族長、ヨウ・セイハイの正妻だ。
フヨウは想定内の質問に、すらりと答える。
「貴殿の御子息、サク殿にお会いと思ってね」
フヨウがそう言っても、ミンの表情は変わらない。この青も違う、とフヨウは思った。透き通っている。フヨウは違和感を感じていた。その瞳は酷く穏やかなのに、抜け目ない光を宿しているのだ。
「生憎、サクはここにはおりません」
ミンは淡々と答えた。フヨウは目を細める。
「森にいる、ということでよろしかったかな」
フヨウは穏やかな笑みを浮かべていたが、目は細めたままだった。怪しい、とフヨウは思っていた。ミンは、表情の変化はなく、ただフヨウが何者かを見破ろうとしているかのようだ。そして、それは息子の居場所を言う時でさえ変わらないのだ。フヨウは確信した。
「それはお騒がせして申し訳ない。しかし、心残りがあるんだよ」
フヨウは目を伏せる。
「私はミン夫人とお話がしたかった」
ぐらり、と相手の纏う雰囲気が変わるのを、フヨウは感じた。フヨウはミンを見た。顔は相変わらずだったが、困惑していることが、フヨウにはすぐに分かった。
「私がミン・セイハイですよ」
冷やかな声だった。淡々としているわけではない。明らかに声の質は変わった。そこまで神経が回っていないのだろう。フヨウは穏やかに微笑み、続ける。
「貴殿の御体は、確かにミン・セイハイのものだ。そろそろ、彼女に体を返してやっても良いのではないかね」
ミンの表情が崩れた。それだけではない。ミンは立ち上がる。
「何を言っているのです。私か……」
必死だ、とフヨウは思った。表情を隠すことも苦手らしい。フヨウの中で、的が絞れてきていた。
「太古の時代に世界を分断し、魔法を生み出すにあたって犠牲になった四人の若者のうちの一人ではないかね」
ミンは椅子に倒れこんだ。力が抜けているのだろう。焦点が定まっていない。ただ、虚空を見つめるような目。
世界分断。その事実を知る者は極めて少ない。四界は一つだったのだ。それが古の時代、四つに分断された。そして、それを行い。そのために犠牲になった若者が四人いる。若者たちの体は消滅した。ただ、魂は消滅しなかった。魂の運動を利用して、世界を分断したためである。つまり、魂は死んでいない。
「こちらは何の根拠も無い私の勘だが……天界、違うかね」
若者の魂は、四界一つ一つの名前になっている。つまり、四界の意思とは、この四人の若者の意思。フヨウは、その若者たち一人一人の性格まで把握していた。
「あなたは人間ではありませんね」
落ち着きを取り戻したミン、否、天界は静かにそう言った。
「確かに、人間ではないね」
フヨウは薄らと微笑む。人間か否かは、フヨウがこの事実を知っているかどうかに関わっているわけではないのだが。
「あなたは、ニュクス様でしょうか」
そう尋ねる天界に、フヨウは思わず声をあげて笑ってしまった。
「古の夜の女神の名かな。私は神になった憶えはないのだけどね」
大そう立派なものと見なされてしまっていたようだ、と考えると、急に滑稽に思えるようになってしまったのだ。フヨウは神を信じていない。しかし、天界は神を信じている。それがあまりにも意外で、それもまたフヨウにとっては滑稽だった。
「私はしがない旅人だよ」
怪訝そうにフヨウを見る天界を気遣って、こみ上げる笑いを抑えながら言った。
「私たちは、あなたを感知できなかった」
フヨウは気持ちを落ち着けた。
私たち、という言葉には、魔界が入るのだろうな、とフヨウは思った。天界の魂はあくまでも天界にある。認識できるのは、天界だけのはずだ。魔界まで影響を及ぼすことができるようになるためには、人が、自分の世界、つまり天界に入ったときに、体を乗っ取っておく必要がある。しかし、そうしても、認識できるのは乗っ取った人間が認識できる範囲だけなのだが。
しかし、四界は、四界同士で自由に会話ができる。だから、フヨウが認識できてなかったことに対して、疑問に思うことは当たり前だろう、とフヨウは思った。
「それは、夜に溶けていたからだよ」
眉を顰める天界に、フヨウは続ける。
「魔法は人が夜に溶けることを妨害する。魔法を捨てた私を、視覚以外で感知することは難しいだろうね」
そこまで言うと、天界は少し考えた後、口を開いた。
「どちらかというと、精霊に近いと言うことかしら」
「精霊のような能力は無いが、立場としては似ているところはあるね。どちらにしろ、神よりはずっと近いことは確実だ」
フヨウは先ほどのことを思い出し、また僅かに声を出して笑った。そんなフヨウを無視して、天界は再び口を開いた。
「でも、あなたは本当に神様みたい」
フヨウの中で、何かが沸き起こった。ここまで説明しても分からない、ということは許せる。ただ、フヨウは、二度も言われたくなかった。一度は滑稽だ、というだけで済んだ。しかし、一度目と二度目では、フヨウの中で大きく意味が異なるのだ。
「人を創った貴殿らには及ばない」
さらりとフヨウは言った。何かが揺れた気がした。
「あなたは、一体どこまで知っているの」
天界は険しい顔でフヨウに尋ねた。
「貴殿らの力を受け継いだ空の一族たちは、貴殿らの思い通りには動かなくなった。だから、貴殿らは創ったのだろう。歴史に関わるためにね」
空の一族。四人の若者の祝福を受けた四兄弟。その兄弟の子孫は、今も四界に生き続けている。フヨウは会ったことはなかった。ただ、空の一族という名前は、一般的に使われている。本当の意味を知るものは少ないが。
フヨウは続ける。
「まるで己が絶対の如く、歴史に関わるのは、良いこととは言えないと思っている。実態として存在する幽霊ですら、歴史に関与することを忌むべきことだと避けているんだよ」
創った人間を使い四界に干渉する。今は魂だけが一つ一つの世界に結びついていると言っても、彼らは元々は人間である。そして、何よりも実体がない。
「ならば、あなたは、何故このようなことを知っているの。このことは、空の一族しか知らないはずよ」
無知。それは傲慢に変わる恐れがある。フヨウは穏やかに笑っていた。ただ、「敵」の存在を把握していないどころか、存在を認められない絶対的存在になっていると思い込んでいるのだ。
「私は魔法の才以外に、特別な力など、持ち合わせていないよ。ただ、素晴らしい友人が多くいてね」
精霊。世界分断よりもずっと前から存在する者たち。良く勘違いをされるのだが、魔法とは全く関係のない存在である。
「あなたは、魔法を使わないんじゃなかったの」
「確かに使わない。だが、使えないわけではない」
魔界の民で使えない者は少ないだろう、とフヨウは思った。フヨウは人間ではないが、普通の民族だ。
フヨウは話を変える。これ以上、このことについて話していても無駄なのだ。結局辿り着く場所は一つ。それは、天界が認めたくない事実だろう、とフヨウは思った。知らない方が幸せである。
「そういえば、貴殿の御名を御伺いしていなかったね」
元は人間だったのだ。名前はあるはずである。流石に、フヨウは天界の名前までは知らなかった。
「カナン……カナン・レインアイよ」
天界、カナンは毒気を抜かれたような顔をした。驚いているのだ。
「雨の瞳の約束。素晴らしい御名だ」
そちらの方が似合っているね、とフヨウは笑う。
「私は、サク・セイハイに謝りに来たんだ」
「それだけのために遥々此処までいらしたのですか」
驚いたようにフヨウを見るカナンに、フヨウは安心させるように笑った。
「話も聞きたかったのだよ。いきなり消えた理由。私たちは旅の仲間だからね」
フヨウがそう言うと、カナンは目を伏せ、苦笑いした。
「世界が、サクを闇の姫君と会わせたのは、間違いだったようね」
フヨウは思いがけない情報に、口元が緩んだ。
「物事に無理矢理介入して、良い結果になることは少ないね」
「ええ。特に、サクは干渉を嫌う子。それが更に顕著になったの。本当に、私は彼が苦手だわ」
フヨウの中でサクの人間像が完成した。確かに、サクは干渉を嫌うだろう。自分の体が、四界に支配されるなぞ、もっての外である。自分も母親の様な操り人形にはなりたくない、と思って警戒していたのだろう。
「そうか。私もそればかりは何とも言えないね。私は彼に嫌われてるんだ。何しろ、真正面から言われたから、相当な物だろうね。しかし、その割に避けられることはないよ」
何故だろうね、と微笑む。サクは、いつだってフヨウの近くに居たがっていた。それは好奇心だけではなかったように、フヨウは思っていた。違うのだ。サクは物事に聡いため、フヨウに対する違和感を、嫌い、という感情として認識ができている。それとはまた別の問題である。
夜に惹かれる人間は稀にいるのだ。
「ところで、私が一番聞きたかったことなのだが、森では何が起こっているのかね」
フヨウは、あまりの衝撃に忘れるところだったよ、と言いたかったが、確実に相手のほうが衝撃を受けているのは分かっていたので、自粛した。
「サクがエルフの森に逃げ込んだのよ。今、ほとんどの兵を森の中での捜索に回しているわ」
どうしたことかしらね、とカナンは微笑む。
「ほう。ということは、森には兵士が多くいると言うことだね」
フヨウは小さな窓から漆黒の空を見た。外には、クリス、ジェイク、サク、そして多くの兵士たちがいる。何も起こらないはずがない。
「これは急がないといけない。Farewell, ミン夫人に宜しく」
何がともあれ、クリスとジェイクを連れてきたのはフヨウである。責任は取らなければいけない。
「次会うときには、貴殿とは敵かもしれないね」
フヨウはカナンに一礼して、部屋から出て行った。一瞬だけ、カナンの呆気に取られたような表情が視界に入った。
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